第二話 「二人でひとり」(50)

末松は息を切らして追いかけ続けた。浅草材木町、花川戸町をさらに走った。
たどり着いたのは吉原大門の前だった。駕籠は停まり、若旦那は降りた。
吉原の大門をくぐってなかへ入っていく。艶めかしい色街である。
そんな色街なんぞには縁のない末松である。吉原がどんな街なのか、まったく知らない。
ただ、大門から先は豪奢な街で、とても老人形を背負って通り抜けられる気配はない。
末松は柳の樹の脇に、張り子の老人形を降ろした。
背負っていた人形を柳の根元に置いて、吉原の街へと歩いていく若旦那のあとをさらにつけた。若旦那は朱塀の小さな店に入って行った。
そこが引手茶屋と呼ばれる店であることを末松は知らない。
吉原の決まりでは、まず引手茶屋で芸者や幇間、つまり男芸者のたいこ持ちを招いて酒に料理を楽しむ。引手茶屋で酔いがほろりとまわり、芸者たいこ持ちに浮かされて、気分もその気になったところで、大見世の遊女屋に案内される。
大見世は総籬とも呼ばれる。店先が正面だけでなく、残らず格子が張りめぐらされていて、これを籬と呼ぶので、その名が付けられた。店構えは大きく、揚げ代と呼ばれる遊興費もべらぼうに高い。もう日暮れ刻となった。あたりはうっすらと暗い。暮れ六ツの鐘が聞こえる。と思うと、吉原の街が地から空まで明るくなった。
街中の灯籠に店前の大提灯、看板、店内の行燈、蝋燭にいっせいに火が灯ったのだ。
末松は陽が暮れたというのに、また陽が昇ったのかとさえ思った。
それほどに不夜城と呼ばれる吉原の夜は明るかった。
末松は引手茶屋の前で、一刻以上も店を見張っていたことになる。
気がついてみると吉原の街は桜の樹が多い。咲いてはいない。まだつぼみだ。
「ほぅー。きれいな街だなぁ」
独り言を末松はぐっと飲み込んだ。飲み込んで引手茶屋を見張った。
やがて引手茶屋から出てきた若旦那は、幇間や芸者を伴っていた。
牛太郎とも呼ばれる遊女屋の若い衆が、提灯で若旦那の足もとを照らし案内していく。
ほろ酔いの若旦那は、何ごとか上機嫌にしゃべる。
「そりゃまた粋でございますな」
すかさず幇間が合いの手に若旦那の機嫌を取る。若旦那は吉原の大道を、我が物顔で歩いていく。末松はまだあきらめられなかった。
人混みをかき分けて、あとをつける。店前で客引きに余念がない牛太郎たちが、
「ねぇ、旦那。良い娘がそろっておりやす。お遊びになっちゃあいかがです」
そんな声もかける。吉原は江戸町一丁目、江戸町二丁目、揚屋町、角町、京町二丁目、奥が一丁目。張見世が並ぶ。遊女が格子の奥から、男たちに声をかける。
「ねぇ主、あがっていきなまんし」
たいそうなにぎわいであった。すれ違う男たちとぶつかりそうになる。
燭台の蝋燭や行燈に白塗りのあでやかな着物をまとった遊女たちが格子の向こうに並ぶ。
だが、肩当てのぼろ着をまとった末松に声をかける牛太郎も遊女もいなかった。
「こんな身なりじゃ当たり前ぇだぁ」
末松は吉原という街を初めて歩いてそう思った。
若旦那は提灯に導かれて、やがて佐野槌と看板のあがっている総籬の大見世へ入って消えた。幇間や芸者も一緒だった。宵五ツを過ぎている。大広間の障子がぱっと明るく輝いた。声がする。若旦那の声だ。幇間が世辞を大声に述べている。女たちの笑い声が響く。
昼の座敷かと思うくらい、若旦那の部屋からは明かりがもれている。
末松はじっと若旦那の部屋を見上げた。二階屋の部屋だ。
白い障子の向こうに、若旦那たちの影姿が見えた。
三味線、小太鼓の音が鳴り響く。芸者の新内節が聞こえる。
酔って上機嫌の若旦那の高笑いが、末松にはなぜか許せない心持ちだった。
宵五ツ半には、三味線、太鼓、芸者の唄声で幇間を交えて踊りが始まった。
若旦那が両手に何かを取り出すと、手を差し上げてばらまいた。
幇間、芸者たち、数人がわっと取り集まって我先に拾い上げていく。
「野郎、金をばらまいていやがるんだ」
末松の目には、そう映った。
やがて夜四ツの鐘が鳴った。亥の刻である。座敷の明かりは、すっと消された。
花魁と寝間へ移ったのだろう。それでも末松は、大籬の二階屋を見つめたままだった。
不夜城、吉原の町明かりは煌々と輝いている。
その見世明かりも、一つ消え、二つ消え、遊女との寝間に引っ込んだ客たちをもてなすための闇を作るように、暗く静かになっていった。末松はじっと待った。
暁七ツ。夜がもうすぐ明けるだろうという春の夜明け前。まだ薄暗いなかを、佐野槌から若旦那は出てきた。おおぜいの見世の者に送られて、幇間を伴って上機嫌である。
吉原江戸町一丁目と二丁目の前にある大門をくぐる。
若旦那は、そのまま五十軒茶屋町の曲がりくねった道を歩いて行く。
末松はそのままあとを追った。茶屋町が並ぶ道の向こうに柳の樹が見えた。