第二話 「二人でひとり」(49)

お美津はまたころころと口に手を当てて笑った。純である。無垢である。
なるほど田舎育ちの娘とは、こうしたものかと円朝は思った。
「おら、江戸ってぇとこ見てみたい、そこで働いてみたいって心に決めたんだ。そんで館山から舟に乗って、柳原ってぇところへゆんべ着いただよ。お客さん、何にするべ」
「そうか。注文か。お茶受けに何が美味いんだい。この花房屋は」
「そんならうちの旦那様がお勧めの豆かんはどうかね。おらもゆんべご馳走になっただけど、甘くてしょっぱくて美味んめぇよぅ」
お美津は、豆かんを勧めた。他の客にも勧めているのであろう。昨夜、お美津が江戸に来て初めて食べたのがこの豆かんらしい。
豆かんは、豆と寒天に黒蜜をかけただけの江戸の味である。豆は塩ゆでした赤豌豆で、ぱさぱさと乾いている。これが水気を含んだ寒天と混ざると口のなかで真綿が水を吸いこむような食感となる。塩気の効いたところへとろりと濃く甘い黒蜜が味を調える。
なるほど、お美津が勧めるに納得する。円朝は、豆かんを平らげた。
すぐにお美津が、替わりの茶を運んで来た。店を訪ねたときより、濃い煎茶がお美津の手によって縁台に置かれた。甘い口に、濃く渋い茶が染みる。
「看板娘のみで客を釣ろうというだけの茶屋ではないな。なかなかの味わいだ」
満足して、円朝は花房屋をあとにした。
入れ違いに、目尻の細いやさ男が花房屋にやって来た。古風な本多髷に濃紺の小袖。海老茶色の羽織を着ている。鼻筋の通った若い男だった。大店の若旦那という風情である。
「おおかたお美津さんの噂を聞きつけて花房屋に出向いて来たんだろう」
円朝は、取り合わずにすれ違った。
来た道とは違えて、神田広小路から左へ折れた。武家屋敷が並ぶ閑静な道だ。
十五万石の小笠原左京太夫や、三万石の黒田淡路守、一万石の井上築後守の武家屋敷が並ぶ下谷御成道である。円朝は湯島へと帰って行った。
昼八ツ刻、円朝は支度を調えると、上野黒門亭の昼席へと向かった。
黒門亭の高座がはねると、守蔵と伸兵衛の担ぐ駕篭に乗って本所の満川亭の夜席へと出向いて行った。円朝にとっては日常の寄席務めである。
さかのぼること、昼九ツ半。円朝の去った花房屋の店先に、末松が肩入れのぼろ着に張り子の老人形を背に現れた。現れたというより、出くわしたのである。
末松は見つけてしまった。
「ゆうべの女だ」
捨吉と、残飯で煮込んだ鍋を突いているときに、柳原の対岸に舟から岡にあがったあの女が茶屋で、衣装もさっぱりと髷の次第も新しく、にこにこと客をもてなしている。
末松は、とっさに
「見られちゃいけない。目が合っちゃいけない」
張り子の老人形を背負った姿を恥じるように、近くの松の幹のかげに隠れた。
「いけませんよ、若旦那。お美津は遊女じゃないんでございますから」
男の声がした。花房屋の主人らしい初老の男が、若い男に笑いながらも小言を述べている。若旦那と呼ばれた男は、末松と歳は同じくらいだろうが、着ているものも上等で髷も古風だが端正だ。なにより顔が良い。役者風情といっていい。その若旦那が、女の手を。
「そうか、お美津というのか、あの娘は」
女の、すなわちお美津の手を握っては放さない。
「いやだよぅ。若旦那。他のお客様が呼んでなさるよ。おら行かねば。その手を放しておくんなさいましよぅ」
お美津は、嫌がりながらも、若旦那には愛想笑いを崩さない。それがますます若旦那には可愛く見えるのだろう。お美津の手をやはり放さないのだ。
末松は、お美津から目を離せなかった。その手を握る若旦那からも。
「堪忍しておくんなさいましよぅ」
やっと手を放してもらったお美津は、忙しそうに、他の縁台に腰かけた客へ茶托を運んでいくのだった。
四半刻も末松はお美津が立ち働く姿に目を奪われていた。どの客にもにこにこと笑う。
昨晩、柳原の土手で末松に会釈してくれたときの笑顔だった。
若旦那が縁台を立ったのは半刻も過ぎてからだった。
末松は、お美津を松のかげから見つめていたが、ふと思い立って、若旦那のあとからついて歩いていった。
「どこのお店の若旦那か、確かめてやる」
その思いつきに、さして目当てがあったわけではない。
ただ自分と同じ歳頃の、しかし身なりは格段に違う若旦那の所在を知りたくなった。
お美津の手を握って放さなかった若旦那の所在をである。
あとをつけながら、お美津の笑顔が心裏に浮かんだ。
「あの若旦那に嫌な顔は見せなかった」
そのことが何より気になって仕方がなかった。神田広小路で若旦那は辻駕篭を拾った。
末松は駆けていく駕篭のあとをつけて走った。老人形を背に、ぼろ着をまとって駆けていく末松に通りすがりの人たちは目を見張って道を譲った。それほどに異様な姿だったのだろう。末松は、そんな人たちの目はおかまいなしだった。
「追いつかなければ」
その一心で駆け続けた。いつしか浅草にまで駆け込んでいた。
「あの若旦那のお店ってぇのは浅草にあるのか」
だが浅草寺の門前を過ぎ、さらに裏手の町へと駕篭は駆けていく。