第二話 「二人でひとり」(51)

「そうだ。お父っつぁんの人形を置きっぱなしだった」
若旦那を見失わないように目先は通りを眺めつつ、末松は張り子の人形を探した。
ない。柳の根元に老人形はなくなっている。
「誰かに持っていかれちまったのか。それとも捨てられちまったものか」
あちらこちら破れかけの老人形だった。華やかな遊郭の出入り口に、みすぼらしい人形などが置いてあるのは目の邪魔と思われて捨てられてしまったのかもしれない。
「あぁ、お父っつぁん……」
商売ができなくなる。だがいまの末松にはそれどころではなかった。
柳は見返り柳という吉原名所の一本だとも末松は知らなかった。
吉原遊郭で遊んで、一夜を共にした遊女を思い出してはふと振り返るあたり。そこに植えてある柳の樹が一本。見返り柳の由縁である。
日本堤の土手にあがる。浅草田町二丁目と今戸町、花川戸町にはさまれた堀割が流れる。
土手を降りて、若旦那は舟を雇った。朝帰りの客を待って、日本堤の堤防にはちょき舟がたいそう並んでいる。そのうちの一艘に若旦那と幇間は乗り込んだのであった。
末松はしまったと思った。舟に乗る身なりじゃない。
すぅいっと漕ぎだした舟を追って、末松は日本堤の土手を駆け出した。
対岸に今戸町、浅草新鳥越町、浅草新町を越えると川幅の広い山谷堀に出る。
「まだ追える」
息を切らしながら末松は土手を駆けた。今戸橋をくぐると山谷堀から大川へ出る。川幅はもっと広くなる。大川沿いの土手を十数町余り、末松は駆けに駆けた。吾妻橋もくぐり抜けた。浅草森田町のあたりは蔵が建ち並び、大きな蔵のかげに舟を見失いそうにもなった。やがて何と舟は大川から神田川に入っていくではないか。
神田川を遡上すれば柳原河岸である。勝手知ったる柳原の土手を末松は駆けた。
末松と捨吉の掘っ立て小屋がある和泉橋の下も舟はくぐって行く。明け方のことで、捨吉は小屋にまだ眠っているだろう。
「ゆうべは俺の帰りを待ちそびれて、ひとりで飯を食らって寝ちまっているだろう」
掘っ立て小屋には構わず、柳原の土手を神田川沿いに駆け上る。
舟は昌平橋もくぐった。水道橋をくぐり小川町、三崎町も抜けた。
舟に乗る方は座ったままで楽だろうが、末松は舌が口から飛び出るかと思うほどに息を切らしていた。小石川の舟の御門をくぐり抜けて、若旦那が舟を降りたのは牛込揚場町だった。末松は土手に倒れ込みそうになるのをこらえて、舟から土手へあがった若旦那のあとをまだつけた。
牛込揚場町の荷揚げ物預かり問屋、駿河屋のまだ開店前で締まっている木戸をとんとんと叩いて、内側にいる小僧に木戸を開けてもらい、若旦那は木戸内へ消えた。
木戸前に残った幇間が、小声で、
「昨夜はお楽しみにご祝儀までいただいてありがとうございました」
世辞をそっとつぶやいた。
「若旦那、それじゃまたお近い内に」
機嫌を取るような明るい小声で木戸内に去る若旦那に幇間はあいさつをしていた。
「はぁはぁはぁ……」
末松は息を整えるのにどれほどかかったことだろう。明け方である。牛込揚場町の天水桶のかげに隠れて駿河屋をしゃがみ込みながら見張った。駿河屋はまだ開店前であった。 表戸は閉じられたままだ。
「豪奢な着物に、吉原じゃ金までばらまいて、遊びたいだけ遊んで暮らしてやがる」
大店の若旦那に生まれたというだけで、こうも自分とは暮らしが違うものか。
「お美津さんの手を握って、好きなだけいいように言いなして、その晩に遊女を買って寝ていやがった。あの野郎、何でも思い通りになると思っていやがる」
いま頃は、朝帰りにまたひと寝入り。厚い布団に高枕だろう。
それに比べて自分は……。
「商売道具のお父っつぁんの張り子人形まで無くしちまった。今日からどうやって稼げばいいんだ」
情けなくもあり、胸が熱くもあり、それはお美津のことを考えればだが、よけいに胸が高鳴って、怒りにも似た心持ちを身体のなかに抑えきれなくなっていた。
そんな嫉妬は、これまでに感じたことすらなかった。自分は親無し子、捨吉とふたり。柳原の掘っ立て小屋で、張り子人形の親孝行を生業に、その日をどうにか生き延びれば、それだけで良かった。
良かった。良かったのか。それとも自分のなかに燃え立つものがあると気がつかなかったのか。末松はすっかり分からなくなっていた。ただ閑かな駿河屋をじっと見つめていた。
「御用だっ」
末松の目の前に十手が現れた。
「ひえっ」
末松はとっさに逃げ出そうとした。
十手を差し出した岡っ引きは、末松の腰帯をひっ捕まえて、はははと笑った。
「はは、十手を見せられたくれぇで逃げようとするところを見ると、奉行所や火盗改めの密偵ってぇことじゃねぇようだな。おおかた盗人の下見だろう。な、そうだろう」
岡っ引き姿の男は、小声で末松の耳打ちしてささやいた。
「狙っているのは廻船荷揚げ問屋の駿河屋とにらんだが違うかい」
岡っ引き姿の男は十手を帯に差し込んだ。
ぽんと末松の肩を叩いて再び天水桶のかげに座るようにうながした。
男もしゃがみ込んだ。鼻の右に黒子が目立つ十手持ちだ。