第二話 「二人でひとり」(48)

神田佐久間町から三十二万石の藤堂和泉守屋敷前を通り抜け、神田松永町から神田相生町へと歩いた。そこから花房町を抜け、神田の広小路あたりで口上を述べてみて、客がつかなければ、そのまま神田明神下町から、坂を登り神田明神の鳥居前まで歩いていくつもりだった。だからいま、江戸の町なかとはいえ閑静な藤堂和泉守屋敷前を歩いている。
武家屋敷前だけに、門番が立ち、うっかり口上の
「親孝行でござい」
とでも声をあげようものなら、門番から六尺棒で殴られるかもしれない。
末松はそんな想像におびえつつ、とぼとぼと人気の無い門前道を歩き続けた。
「ほぅ、親孝行かい」
後ろから声をかけられた。はっとして振り向くと、黒羽織、江戸紫の着物に朱襟の襦袢をのぞかせた男が腕組みをして立っていた。小銀杏髷に白足袋に朱色の鼻緒の草履を履いている。三遊亭円朝である。
だが末松は寄席などへ通ったことはない。円朝の顔姿など知ろうよしもない。
末松がおどおどとたじろいでいると、男は近づいてきて、
「お前ぇさん、本当の親はいねぇんだろう。そんな面構えしてらぁ」
言いながら、
「俺にゃおっ母さんがいてな。孝行してぇが親不孝続きでな。ほいよ、俺の親孝行の功徳代わりだ」
末松の手に、一分金を握らせた。
「えっ、こんなに」
末松が目を大きくして驚いたのも無理はない。四分の一両にも相当する大金である。
末松が普段に客からもらう四文の三百倍に相当する。
一日に稼ぎの良い日で八十文。悪ければ四十文がせいぜいだ。
末松は三十日かかってもやっと稼げるかどうかの大金を手にしたのである。
「いえ、おつり銭がございません」
末松はのどを鳴らしながら、男に答えた。
「良いってことよ。お前ぇさんの親孝行へのご祝儀だ。その代わり、俺のおっ母さんが達者でいられるように祈ってやっておくんなよ」
「だっ、旦那ぁ。おありがとうございます」
末松は深々とおじぎをした。
「おっとっと。背中のお父っつぁんにまで、おじぎをされちまったぜ」
男は末松に言った。
「なぁ、兄さん。背中のお父っつぁん。でぇぶ破けてきてらぁ。顔のあたりと足のあたり、その金で修繕ってやっておくんなよ。何しろお前ぇさんは親孝行なんだから。な」
言って男は、すなわち円朝はまた羽織の袖に懐手の腕組みをしながら、末松を追い越して、神田明神の方角へすたすたと歩いて去った。
末松は去って行く円朝にいつまでも頭を下げていた。
円朝は神田明神に参拝した帰りに、花房町に立ち寄った。お目当ては茶屋の娘である。
「なーるほど、こいつぁ」
聞きしに勝る、べっぴんだ。
円朝は休み茶屋の花房屋から少し離れたところに立ち、娘を眺めた。黄八丈の着物に、朱色の帯。勝山髷に花かんざしがきらきらと光る。細面に涼やかな目をしている。唇に挿した紅があざやかだ。神田明神の参拝客が行きに帰りに立ち寄る茶屋が花房屋だろうが、
「茶や菓子で一服が目当てというより、あの娘が目当てのにぎわいだろうぜ。こいつぁ」
つぶやきつつ、円朝も花房屋の緋毛氈を敷いた縁台に腰かけた。
「いらっしゃいましーっ」
さっそく娘が円朝に茶托を運んで来た。
「娘さん。この店へは今朝からだってねぇ。名は何てんだい」
「あんれぇ、お客様もわしの名をお尋ねかねぇ。まったく江戸っちゅうところは会えば名を名乗んなきゃならねぇかね」
上総あたりの訛りで娘は答えた。
「お美津ってぇいいます。ご贔屓にしてくだせぇね」
「ほぅ、お美津さんはまたどうしてこの茶屋に奉公することになったんだい」
「あんれぇ、それも今朝から山ほど聞かれただよ」
お美津はころころと可愛らしく口に手を当てて笑った。
「この花房屋のご主人の幸助様が、おらの村に湯治にいらしただよ」
「へぇ湯治ってぇと、どこの村だぃ」
「上総の館山の浅間神社の近くだよ。知っとるべ」
「いや浅間神社は江戸にもあちらこちらにある。なるほど上総の館山か。それで」
「湯もみしていたおらに声をお掛けくださってね。江戸で働いてみねぇかって」
「ほぅ、おおかたお美津さんの器量良しに目を留めたんだろうな」
「あんれぇ。お客様も皆んなと同んなじことを言うだな」