第二話 「二人でひとり」(46)

普段通りの何ということはない眺めだった。舟の上にぶら提灯が明かりが点いた。
捨吉は鍋の具を口に運ぶのに夢中だったが、末松はふと箸を止め、対岸の明かりを見た。 ふわっと明かりに照らし出されたのは、若い女だった。
色あせた藍染の着物に白襟がのぞく。ちょんぼり髪に結った小顔の女であった。先に荷揚げされた行李と小箱が女の道具一式なのだろう。田舎風情ではあるが、美人でもある。
捨吉も箸を止めた。末松が対岸を見つめたままじっと動かないからだった。
捨吉は、末松の視線の先を追った。自分も提灯に照らされた女の姿を見た。
「きれいな女だね。どっから来たのかな」
「おおかた上総か下総の百姓家か漁師小屋からだろうよ」
「どこへ行くのかな」
「こんな夕暮れ時に江戸へ着いたんだ。まっとうなところじゃあんめぃ。女衒に買われてもして来やがったか。神田川河岸からなら、浅草吉原、いや千住の飯盛り宿あたりかな」
「お女郎さんになる女だってのかい」
「ああ、そんなところだろうぜ」
「お女郎さんかぁ、俺たちにはご縁がないね」
「ああ、捨吉。黙って食いな」
言ったものの、末松は女から目が離せなかった。
夕闇のなか、提灯の明かりに照らされて岸辺を歩く女の顔はよけいに白く映える。
じっと見つめていた末松を、対岸から女が視線に気がついたように振り向いた。
末松と目が合った。女はにこりと会釈をしてみせた。
それから提灯に導かれ、土手を登って橋の上へと去って行ってしまった。
末松は雷に打たれでもしたかのように、びくりと身体を震わせて、それきり動けなくなってしまった。
「兄ぃどうしたんだい。早く食べないと鍋が冷めちまうよぅ」
捨吉がうながしたが、末松はいつまでも女が去った土手の上を見つめていた。
翌日の昼下がり。湯島の円朝の家を訪ねる者があった。牧野圭之介である。
左腕はまだ三角巾で吊している。薄紅色格子模様の着物に黒羽織、腰の大小に朱房の十手を差し込み、黒足袋にばらおの雪駄。どう見ても同心姿だけに、腕の怪我が目立つ。
円朝の家は、普請中である。火災で半焼した壁と柱は真新しくなっていた。
「ほぅ円朝、たった三日でここまで建て直せるものなのか」
「ああ、腕のいい大工が入ってな。今日は余所の家の普請に廻っているが、俺の家はもうあと五日もありゃぁ元の通り、いや元の家より立派な普請に仕上がるってことだぜ」
「ほぅよほど腕のいい大工なんだな」
「それが神田竪大工町の長屋に住む久米吉っつぁんだぜ」
「何っ、するとお千恵の……。円朝、仔細は久米吉に打ち明けたのか」
「いや、言わねぇ。俺がお千恵さんと会ったことは久米吉さんには話していねぇんだ」
玄関に立ったままだった圭之介を、円朝があがりかまちに座るようにうながした。
「うむ、それもそうだな」
言いながら圭之介は右手で腰の大刀を抜いてあがりかまちに置くと、腰を降ろした。
「たった三日を過ごしただけだ。久米吉はそれからお千恵にまったく会っておらん。それでも恋しい女房が、盗人のところに十年もいて、引き込み手引きを続けていたと聞いたら、驚くばかりでは済まんだろう。酷というものだろうな」
圭之介は腕組みをしかけて、右手を三角巾にぶつけ、いまさら気がついたように、苦笑いをした。
「圭之介さんがおいでなのかい」
奥間から声がした。円朝の母親、おすみの声である。すっと襖が開いておすみが現れた。
「焼け出されの家なもんですからね。何もご用意ができなくって」
言いながら、飯碗に白販。芝えびを団子に丸めて、焼き豆腐と合わせたお吸い物。焼き串に、赤味噌を丸めて焦がし焼きしたものを膳部に運んで圭之介に差し出した。
「いや、昼餉を馳走に伺ったのではないのです。いつもいつも、おっ母さんから馳走されては、この牧野圭之介。お返しするものが何とてございません」
「何を言ってるんですか。次郎吉とは幼なじみ。いまじゃご立派なお奉行所務めの同心様。それでいて、三遊亭円朝だなんて噺家風情なんぞになっちまった次郎吉とは、こうしてお付き合いをしてくださる。その圭之介さんのお心持ちが何よりのあたしへのお返しざんすよ。さぁ、ご遠慮なく箸をおつけになって……」
とおすみは、はっと気がついた。
圭之介は右手に箸を握れるが、左手に飯碗を抱えることができないではないか。
「あら、いけない。あたしとしたことが気がつきませんで」
言うと、おすみは奥間に戻っていった。
「おぅ、圭之介。そんな左腕を痛めているんだ。町廻りのお勤めに障りゃぁしめぇか」
「何、休んではおれぬ。まだ文蔵一味が江戸市中に盗み働きを仕掛けるやもしれん。いざとなれば、右手一本で十手でも剣でも振るってみせる」
やれやれという顔をして、円朝は焼き串の味噌玉をぬいっと口に運んだ。
「堅ぇ、堅ぇ」
「うむ、円朝。その味噌玉、そんなに硬いのか」