第一話 「三日女房」(42)

「ちっ、知っていやがったか。あの朴念仁め」
にやりと笑った円朝であった。
翌日は朝からにぎやかなことであった。
焼け落ちた湯島の町のあちらこちらに掛け小屋が建った。
駕篭宿の唐独楽屋では、焼け野原に駕篭を何丁も並べて客を取った。
家も屋敷も、お店も、さっそくに新普請が始まっていた。
火事の跡の、焼けぼっくいからまだ煙が立ち上がろうかという頃合いから、焼け落ちた建屋の普請を始める。それが江戸っ子の気っ風である。
半焼した円朝の家にも大工が入った。
「円朝師匠のお宅だってんで、深川の木場から檜の上等な一本を運んでめえりやした。細工は隆々、仕上げをご覧じろでさぁ。暮らしやすいお宅を普請させていただきやすぜ」
手斧始で木曽から木場に運ばれたという一本檜の樹皮をあざやかに剥いていく。
鋸を入れたかと思うと、さっそく柱が仕上がっていく。
「こちらの壁には格子窓を付けやしょう。二重にして冬は暖かく、夏は開け放していただけば、涼しい風が通りやす。腕っこきの左官に壁は塗らせやすからね。ちっとばかりの火事じゃ、もう焼けたりゃしませんよ」
言いながら、檜の柱を立てていく大工は、久米吉であった。
円朝は、焼け残った奥座敷に寝そべって、落語の構想を思案していた。と座り直して、
「なぁ、棟梁」
と円朝は声をかけた。
「棟梁はよしておくんなさい。あっしはまだ達五郎の棟梁の下働きで、独り立ちなんぞはしていませんや。師匠のお宅の仕上げには達五郎棟梁の手が入りやす。そりゃもう見事な造作になりやすぜ。」
「そいつぁ、済まなかったな。じゃあ久米吉っつぁん。一人暮らしは寂しかぁねぇかい」
久米吉は、円朝の問い掛けに手を休ませずに笑って答えた。
「へへへ、それがね。あっしには恋女房が長屋に待っておりやす。娘が今年で十歳になりやすんで」
「へぇ、名前ぇは」
「へへ、女房の名前はお千恵。娘の名前はお千佳でさぁ」
たじろぎもせず言ってのけた久米吉であった。円朝はじっと久米吉の仕事を眺めていた。
いっときも手を休めない大工仕事であった。
円朝は結城紬の巾着袋を懐から取り出して、畳の上に置いた。
「なら、お千佳ちゃんは、久米吉のお父っつぁんに似てべっぴんだろうなぁ」
久米吉は巾着袋にちらりと目を留めたが、別段、何ごとの変化もみせなかった。
それより、普請の手を休めずに、こう答えたものである。
「いやなに、俺よりゃ女房の方に似ていやして、へへ、べっぴんでござんすよ」
それ以上は、声をかけない円朝であった。
巾着は、お千恵が久米吉と別れてから入手したものであろう。円朝はそう察しをつけた。
暮れ六ツの鐘が鳴る。仕事は仕舞いだ。
「じゃあ、あっしはこれで。明朝また伺いやす」
大工道具を箱にしまい込んで、久米吉が円朝とおすみにぺこりと頭を下げた。
「なぁ、久米吉っつぁん。娘のお千佳ちゃんに、これ。俺からの土産だ」
円朝は、紙細工の姉様人形を差し出した。
島田髷はもちろん、梅模様の着物から、白い指先まで丹念な細工で作られた人形である。
「こいつぁありがてぇ。お千佳のやつ、躍り上がって喜びまさぁ。……あれ、この人形の丸顔、お千恵のやつに面差しが似ておりやす。こいつを見せたら女房の方が欲しがるかもしれませんや」
はしゃぎながら、大工箱のなかに姉様人形をしまい込む久米吉であった。
「じゃ、こんどこそ、おいとまいたしやす。ありがとうございやした」
ひょいと大工箱を肩に担いで、湯島の路地を曲がって去って行く久米吉であった。
湯島天神の梅は満開である。暮れ六ツの鐘に梅の香りが漂う。
夕陽のなかを、どこから迷い込んだものか、紋白蝶が円朝の座敷を舞っていた。