第一話 「三日女房」(41)

「どうした、円朝。さっきから腕組みをしたままだ」
千住の宿場町が明けた空の下に茜色に染まって見えてきた。
「そのことだ圭之介。文蔵のところから逃した、引き込み役の女と、その娘というのがな、じつは……」
円朝はお千恵のことを打ち明けた。大工の久米吉の三日女房であったお千恵のことを。
「何っ、それは真か、円朝」
その打ち明け話に圭之介が絶句した。
「お縄となりゃぁ、磔刑、打ち首もあり得る仔細だ。どうだ、圭之介。お前がお縄にかけたとして、減刑、お目こぼしを、御奉行様にかけあっちゃくれめぇか」
「うーぬ。御奉行に直には訴えられぬ。もしやながら与力の青野武志郎様になら掛け合えるかもしれん」
「頼む、圭之介」
二人が会話を交わすうちに、千住の平宿、嘉納屋の前に近づいた。
「頼む、圭之介」
「二度も言うな円朝。俺の了見では何ともしがたいが、娘を文蔵に人質にとられての引き込み役だ。奉行所のさばきにも情状酌量の余地はある。俺も全力を尽くす」
言って、嘉納屋の玄関を入った圭之介であった。円朝も後から続いて玄関をくぐった。
途端に飛び出して来たのは、守蔵であった。
「しっ、師匠っ。済まねぇ。しっ、しくじりやしたぁーっ」
守蔵はいきなり玄関の土間に平伏した。
「やぃ、どじ足の伸兵衛。手前ぇっちも詫びを入れねぇか。手前ぇのために俺ぁ師匠に、こうした頭を下げる羽目になっているんだぞ」
のたのたと現れたのは伸兵衛である。のっそりと頭を下げた。
「兄ぃが悪いんじゃないやぃ。おいらが、おいらが居眠りしたばっかりに」
「いや、伸兵衛ばかりが悪いってぇわけじゃねぇんで。あっしが伸兵衛にお千恵さんの番を頼んで、夜鳴き蕎麦を喰いに行っているほんの間のことで、済まねぇ、師匠」
二人が平伏する。土間に頭をこすりつけて円朝に詫びを入れる。
それで察せられた。お千恵は、姿をくらましたのだ。
円朝は、無言で平伏する二人の前を通り過ぎ、お千恵の打ち明け話を聞いた六畳の客間へと急いだ。圭之介がこれまた黙って円朝に続いた。
網代編みの黒天井、朝のことで消された行燈の薄障子。納戸色の青海波の襖、美人画と春の草花絵の貼り混ぜの小屏風。敷かれたままの親子布団。
円朝が、子ども用の布団に手を当てると、もはやぬくもりは残っていなかった。
「夜中のうちに。守蔵さんと伸兵衛さんの目を逃れて、立ち去ったとみえる」
「追うか、円朝」
「いや、一刻より早く、この千住の宿から逃げたとあっちゃあ、もう追いつけめぇ」
「それもそうだ。だが文蔵も逃れている。もしも文蔵にまた捕まるようなことがあれば、ただでは済むまい」
「うまく逃げ延びてくれりゃぁ、いいがな」
円朝は黒い網代織りの天井を見つめてそっと言った。
「口も効けねぇ小っちゃな十歳の娘を連れて、か。どこへ逃れていったものかなぁ」
円朝は、天井から床の間に目を移した。結城紬の巾着が残されていた。
圭之介は円朝が懐に結城紬の巾着をしまい込むのには気がつかずにいた。
「なぁ、圭之介、お前ぇは手傷を負った身体だ。守蔵さんと伸兵衛さんの駕篭に乗って、俺が案内する医者のところへ急ぐがいい。お千恵さんのことは、それから考えよう」
朝五ツ半、二人は浅草田原町の医師、弘庵の療養所に立ち寄った。
牧野圭之介の左腕の血止めの布をほどき、切り傷に効く金創膏を巻いた。
桂皮、芍薬、大黄などの生薬を胡麻油で融いたものを和紙に広げて貼る。
「深傷ではない。十日もすれば、剣を握れるようになるだろう。だが、それまでの間は、剣はもちろんのこと、竹刀を握っても傷に障ります。ご用心めされ」
弘庵は圭之介に注意をした。圭之介の左腕を三角巾で肩から吊り下げた。
「そうそう、そう言えば円朝師匠の紹介で往診をしている神田竪大工町の長屋の主、瀧本正太郎殿はな、煎じ薬を防已黄耆湯(ぼういおうぎとう)から、麻杏?甘湯(まきょうよくかんとう)に切り替えた。手や指の痛みもだいぶ和らいでおる。全快とはいくまいが、筆は執れるようになった」
弘庵は円朝に言った。
「しばらくは療治を続けるが大切ではあるがな」
「そうですかい。そいつぁ、良かった。これからも診てやっておくんなさい」
頬笑んだ円朝であった。
「それでは俺は、奉行所へ戻る。五寸釘の文蔵の、隠れ家探索のことで進展があったやもしれんゆえな」
圭之介が床に置いた大小を右手で取り上げた。左腕は肩から吊り下げている。
円朝のわきを通るとき、圭之介は円朝に耳打ちをした。
「懐の結城紬の巾着。もしやお千恵の探索の折に貸してもらうかもしれん」
言い終わると、ぶ然とした顔で弘庵の療養所を出て行った。