第一話 「三日女房」(40)

声が響く。闇を裂いて、捕り手たちが四十名ほどもわらわらっと文蔵たちを取り囲んだ。
「畜生、二匹だけでもぐり込んで来やがったと思ったが、役人どもを集めていやがったか。円朝、勝負はお預けだっ」
文蔵は、抜き身の刀を手に、百姓家に向かって駆け込んでゆく。
「それっ」
同心の数人が、十手で捕り手たちに指図をした。
「文蔵はこの百姓家に、袋の鼠である。取り逃がすなっ」
圭之介も飛び込んで行こうとするところを円朝が止めた。
「待て、圭之介。手負いの傷の手当てが先だ。俺に見せてみろ」
左の袖をまくると、ひじの近くを斬られていた。
「まずは血止めだ」
円朝は、自分の黒い羽織を脱ぎ、紫の絹衣の袖を引き裂くと包帯のようにして、圭之介の左肘をぐるりと縛りつけた。
「あとは医者に診せるといい。これだけの手勢が駆けつけたんだ。文蔵も一味も一網打尽だろうぜ」
円朝は、がくりとひざを落とした圭之介とともに、千住の文蔵の隠れ家が高張り提灯で照らされて、捕り手たちが次々と百姓家に飛び込んで行くのを見つめていた。
ところが……。
文蔵は捕まらなかったのである。
「牧野殿、こちらへっ、これをご覧くだされ」
同僚の同心、村上大輔が圭之介に言った。円朝も付き従って百姓家に入った。
弓張り提灯が照らし出していたのは、死体の山だった。
「こっ、これは」
圭之介は絶句した。
「女と娘を逃がすとき、ちょいと暴れた。そのときに俺が峰打ちした連中だ」
と円朝は圭之介に耳打ちした。十人が背中合わせに、山積みである。
小文太も、太助も死んでいる。円朝は守蔵から預かった梶棒で叩きのめしただけである。
浪人侍も、死骸のなかにいた。
「しでぇもんだ」
円朝がうめいた。うめくにもわけはない。
十人は、皆な額に五寸釘を打ち付けられて、血を流して絶命していたのである。
「おたからを積む人数だけを残して、手負いのものは逃げるに足手まといとばかりに、円朝に痛めつけられた十人をすべてなぶり殺しにしたものであろう」
圭之介は、悔しげに言った。
「だが先ほど、十手で捕縛した一人が生きている。文蔵の逃げた先。口をわらせてやる」
圭之介が百姓家を出て庭先に向かおうとしたときであった。
「牧野様っ」
岡っ引きの富吉が飛び込んできた。
「野郎、たったいま舌を噛み切って手前ぇで死にやした」
「何っ」
百姓家には、文蔵の母親のお与根の姿もない。もぬけのからである。
残ったのは、井汲庵から奪った金子、花器、茶器、骨董の類のみであった。
文蔵は大八車の上に、そればかりは運び出せなかったのである。
調べを進めるうちに、明け六ツの鐘が鳴った。春の夜明けはまだ肌寒い。
百姓家の屋根に、綱が見つかった。
綱は百姓家の屋根から、裏手の欅の根元に結びつけられていたものとみえる。
「うぬ、文蔵め、綱に鞘をかけ、欅の根元まで滑り逃れたものだろう。用意周到な奴だ」
後を追われぬように、その綱は欅の根元で、ぷつりと切られていた。
百姓家の調べは進む。逃れたのは文蔵のわずかな一味と、母親のお与根だ。
調べを離れて、円朝と圭之介は江戸市中に戻ることとなった。
まずは圭之介のけがの治療をしなければならない。
もうひとつ、円朝には、し残したことがあった。
歩きながら、腕の傷に顔をしかめながら圭之介が言う。
「今宵の働き、ご苦労だった。文蔵は取り逃がしたが、奴の剣の腕がかなりのものと知れただけでも、探索に手がかりとなろう。主立った江戸の道場を人相調べするつもりだ。それから井汲庵から奪われた金品が無事に戻っただけでも良しとせねばなるまい」
圭之介は円朝に頭を下げた。円朝は、押し黙ったままだった。