第一話 「三日女房」(37)

治兵衛は、ううっと低くうめきはしたが、ぐったりと力なく円朝に担がれたのだった。
鼠はといえば、若い番頭を肩に担いでいるところだった。土蔵の裏口が狭い。しゃがんだとしても、治兵衛を担いだまま外に出るのは難儀だ。鼠が、いったん番頭を床に降ろし、自分がにじり口から這い出した。そして番頭の身体を、ずるずると引きずるように外から引っ張り出した。円朝は、治兵衛の身体を床に降ろし、鼠にあずけた。
鼠は治兵衛も番頭と同じように、にじり口から引きずり出して脱出させた。
「さぁ、師匠、早くっ」
鼠が手を差し出した。がっしりとしたたくましい手だった。円朝が鼠の腕に引かれて、にじり口を出た。円朝が治兵衛を再び担ぎ、鼠が番頭の身体を担いだ。
二人は走った。燃え盛る炎を避けながら、土蔵から遠くへと逃げた。
がらがらがらっ、ぐわり。
音に振り返ると、井汲庵の蔵が炎上してねじきれるように崩れ落ちるところだった。
二人は避難場所となっている上野広小路へと、治兵衛、番頭を担いで走った。
「円朝師匠ーっ、ご無事ですかいっ」
夜の道に、弓張り提灯を掲げて走ってくる明かりが五つほど見えた。
「おっと、鳶の衆のお迎えが来た。それじゃあ、あっしは、これで」
鼠は、担いでいた番頭の身体を地に置くと、くるりとひるがえって闇へ走り去った。
「円朝師匠っ、また面白い噺を聴かせておくんなせぇ。あっしは楽しみにしてますぜ」
それが鼠の別れの言葉だった。ふっと暗闇に姿が消えた。円朝はあいさつを返そうかと思ったが、やめた。弓張り提灯たちが円朝のもとへ駆けつけたからだ。
「ご無事でっ」
声をかけてきたのは鳶の頭である小久保敏八だった。敏八の周りには、鳶衆が数人付き添っていた。秀次の姿もあった。秀次は、うっ、とのけぞるように円朝の肩の上を見た。
「こっ、こりぁ、井汲庵の治兵衛の旦那。てっきりこの火事で焼け死んだと思っておりやしたのに」
「お一人だけじゃねぇよ。番頭さんも無事だ」
敏八は、地に転がる井汲庵の番頭の姿を提灯で照らして、あっと声をあげた。
「おい、お前ぇら、何を突っ立っていやがる。治兵衛の旦那と番頭さんを、円朝師匠から受けとって、一刻も早く、広小路に運んで、医者に診せるんでぇい。もたもたするなっ」
鳶の若い衆は、敏八に命じられて、さっと手際よく、治兵衛と番頭を運んでいった。
一丁の弓張り提灯が、またこちらにやって来る。御用提灯である。
「無事だったか、円朝。お前がまだ火の手が残る井汲庵の土蔵に向かったというので、俺は心配して駆けつけたんだ。あまり無茶をするなっ」
牧野圭之介であった。
町奉行所の同心として夜の湯島の火事に、警護役として駆けつけたものだろう。
「圭之介、いいところで会った。この火付けは五寸釘の文蔵の仕業だ。井汲庵の旦那に化けて、おたからを大八車に載せて、運んでいやがった」
「何っ。お前、文蔵一味と出会ったのか」
「ああ、千住街道でやつらと組み撃った。文蔵一味の隠れ家は千住の百姓家だ。そこへおたからを運び込んだに違ぇねぇ」
「円朝っ、案内を頼めるか」
「圭之介、お前のため、いや町衆のためなら、俺はまだまだ駆けるぜ」
「かたじけない」
圭之介は、供に連れていた岡っ引きの富吉に目配せをした。
「分かりやした」
ひと言だけ残すと、富吉は走り去って行った。
「富吉が、奉行所から捕り手たちをかき集めて、千住街道で我らと合流する。だが捕り手が集まるのを待ってはおれん。俺と円朝だけでその百姓家に踏み込むか」
「よかろう」
円朝と圭之介は、広小路に向かった。おすみから朱鞘の兼光を受けとると、
「おっ母さん、圭之介とちょっくら夜遊びしてくらぁ。何ぁに、火事が治まったら、また家を普請するから安心してくんな。明け方までにゃぁ帰ぇる。待っていておくんなよ」
くるり、びしょ濡れの羽織をひるがえすと、広小路から千住街道を目指して、圭之介と二人、駆け出して行った。
円朝が案内した千住の百姓家は夜闇にひっそりと鎮まりかえっていた。
「うむ、動きがないな。このまま奉行所が差し向けてくれる捕り手たちを、ここで待つとするか」
欅の幹のかげにひそんで圭之介が言った。
「ああ、薄明かりは点いているが、人がうごめく様子は見えねぇ。井汲庵から盗んだものを片付けでもしているんだろうよ」
その隣の欅のかげに円朝は身を隠していた。
だが、動きがあった。円朝はゆっくりとつぶやいた。
「見ねぇ、圭之介。大八車に荷を積んで、きゃつら動くぜぃ」
荷は井汲庵から強奪した、金子、茶器、花器、骨董の類に間違いないだろう。
「円朝、千住の村の裏手には大川が流れている。あの荷を舟に積み替えて、どこぞへ逃れるつもりではあるまいか」
「うむ、いい読みだ、圭之介。さて、どうする」