第一話 「三日女房」(36)

「湯島天神の表参道あたりから三組坂下までは焼けやしたが、その先の本郷には火は燃え移らねぇように、あっしらが仕掛けやした。もっとも前田様のお屋敷から加賀鳶も馳せ参じやしたがね。手勢は足りたんでございますよ」
延焼の危険がある建物は、鳶口などを使って破壊したということだろう。それが江戸の消防のやり方だ。
「湯島天神下はあっしらの足が間に合いましたんでね。七、八軒を叩っ壊して、あたりにゃぁ水を撒いて、火が回らねぇように仕掛けてありまさぁ」
秀次は、円朝とおすみを抜け道に案内しながら、火事の様子を語って聞かせた。
「家んなかに残っていた人たちは、火除け地の上野の広小路にあっしらがお運びいたしやした。小久保の頭の言いつけで、あっしは円朝師匠のお宅へ向かったんで」
小久保敏八は鳶の頭で、がっしりと背の高い、そのくせ面差しは優しい男だ。
「頭は、円朝師匠がおっ母さんを案じて、火んなかへ飛び込まねぇように、お見張りしろってあっしにお命じんなったんでさぁ。ところが、あっしが駆けつけて見たときにゃぁ、もう師匠が火んなかへ飛び込んだところだった。あっしも飛び込もうかと案じやしたが、おっかさんと外へお逃げなすったときゃ、ほっとしやしたぜ」
円朝は秀次の後を追って駈けている。おすみもついて来る。円朝は尋ねた。
「火元は井汲庵だったのかぃ」
「どうしてそれをっ」
秀次が立ち止まった。上野広小路に向かう道すがらだった。
見通せば、遠く夜闇に高張り提灯が上野広小路の火除け地に掲げられ、その明かりのなかに人々は集まっているのだった。広小路には焼け出された人々が、着の身着のままで、あるいは身近な家財道具を抱えて、集まっている。遠く、湯島の火の手を眺めて口々にお互いの災難を慰め合っている。まだ燃え盛る湯島の街を背にして、円朝とおすみは秀次に案内されながら上野広小路へ向かっているのだ。
「円朝師匠のおっしゃる通り、火元は井汲庵でさぁ。ところが妙なんで」
「妙とは」
「井汲庵の生け垣、表門、裏門と四方から火の手が上がった形跡がありやす。火の手は湯島の町に四方をなめるように広がりやした。こいつぁ火付けに相違ねぇ。ご存じの通り、井汲庵の屋敷内には内蔵がありやす。目塗りがしっかりとしてあるとみえて、屋敷は焼け落ちやしたが、そいつがね」
「うむ」
「炎のなかに内蔵だけが黒い魔物みてぇに、しっかり建っていやがった。周りから炎にあぶられて、内側は蒸し風呂どころか、火炎地獄でしょうぜ。内側には井汲庵の金子や花器、茶器、陶磁器、骨董のたぐいが入っているんだろうって小久保の頭は言っていやしたが、まるで火付けそのことが、内蔵を蒸し焼きにするつもりで点けられたみてぇなんでさぁ」
「まずいっ」
円朝は上野広小路に向かう足を止めた。風呂敷包みと朱鞘をおすみにあずけた。
「その蔵んなかにおいでなのは、金子や骨董じゃねぇ。治兵衛の旦那と番頭さんたちがさるぐつわをされ、縄で身体を縛られて放り込まれているに違ぇねぇんだ。俺ぁ、救いに行くぜっ」
円朝は、くるりときびすを返すと、独り燃え盛る湯島の町に向かって走り出した。
井汲庵の建物は燃え落ちていた。土で作られた蔵が、なるほど秀次の言う通り、炎の中に不気味に夜闇にそびえている。湯島の町は、あちらにも、こちらにもと炎が燃え残っている。円朝は、町内の防火用水である天水桶の水を汲んで、頭から水を浴びた。
炎がところどころに燃え続けるなかをいっさんに駆けた。
井汲庵の土蔵に駆けつけた。井汲庵の家屋そのものはもう全焼して、焼けぼっくいが小さな炎をあげるばかりである。円朝は、蔵の錠前に飛びついた。
「あちっ」
長く炎にあおられて錠前はまさに鉄火のように焼けていた。触れることもできない。
ごぅっと火事場の風が吹く。あらぬ方向から灼熱の風が吹き付けては、円朝の身体を焦がした。熱い。立っている場所は焼け跡だが、いつ燃え上がった炎がこちらに向かってくるとも限らない。まだあちらこちらでくすぶる炎が、ひと風をあびればいっきに燃え上がりそうに見えた。
「どうする、この錠前を開けねぇことには蔵の扉は開かねぇ」
蔵を開けることをあきらめて、逃げ出すしかないか。
「師匠、円朝師匠、表扉から忍び込むのは無理だ。こっちでござんす」
土蔵の影から声がした。円朝が土蔵の裏手に廻ってみると、
「こう火の手の廻りが激しくちゃ、十と数える間も、じっとしちゃいられねぇ」
円朝に言うものか、独り言か、鼠色の忍び装束に身を包んだ男が壁に向かっていた。
「お前ぇさん、どなただぇ」
円朝の問い掛けに、
「老いぼれ鼠とでも呼んでいただきやしょう」
初老の忍び装束の男が答えた。
「この土蔵には表扉の他に、裏口を仕掛けてありやす。たやすく破られねぇように、土壁に出入り口は塗り込んで隠してありやす。いまそこを開けやす」
男は懐から鑿と玄翁を取り出した。手慣れたものだった。がっがっと土蔵の白壁を鑿が削った。ぼろぼろっと土壁が崩れ落ち、黒い扉のようなものが現れた。
人が一人、しゃがんでやっとくぐり抜けられるほどのにじり口だ。
「いま蔵んなかは、密閉されておりやす。ところが外からの風を吸いこんだ蔵んなかは、いっきに火の手が廻りやす。その炎のなかを人を担いで駆け抜けなけりゃなりやせん。お覚悟はよろしゅうござんすか」
鼠の言葉に円朝は黙って首を縦に振った。鼠は黒い扉に手をかけた。
「一の二の、三っ」
開かれた黒い扉から二人は蔵のなかへ、しゃがみながら侵入した。
途端にぶわっと土蔵の床を、なだれ込んで来た炎が覆い尽くした。蔵のなかの暗闇に炎が走った。皮肉にもその明かりで人影が照らし出された。
「治兵衛さんっ、番頭さんっ」
円朝は見つけた。土蔵の床に転がされている二人を。
治兵衛も番頭も、後ろ手に縛られ、口には猿ぐつわをはめられている。
「円朝です。さぁ逃げ出しやしょう」
円朝は縛られたままの治兵衛を肩に担いだ。