第一話 「三日女房」(33)

お千恵は畳の上に目を移した。じっと黙っていたが、息を殺すようにつぶやいた。
「久米吉っつぁん……」
精一杯の声だった。畳に手をついて、うつむいたままのお千恵から、しずくが落ちた。
涙を流しているのだ、と円朝は思ったが、お千恵の肩に手を伸ばすでもなく、そっとしておいた。泣くだけ、泣かせてやるのが人情というものだ。
円朝は独り言のようにつぶやいた。
「謎解きは、まだ残っていらぁ。京で文蔵は誰と会っていたのか。京でのんびりと暮らせる身の上を捨てて、なぜ江戸へ舞い戻って来やがったのか。それに押し込みの手口だ。なぜに、これほどまでに大金を集めることにやっきになっていやがるのか」
円朝はあごに手をやって、目の前のお千恵を見つめた。
「この数日の間に手荒い手口で人殺しもいとわねぇで、やたらと大店を狙っていやがる。焦って金を集める所懐はどこにあるんだ。役人を馬鹿にしたような手口も気になる。まるで役人をあおっているみてぇだ。お千恵さん、思い当たりはねぇのかぃ」
お千恵は、しばらく考え込んでいた。
「そういえば……、京を起つのが急でした。“急がなくちゃならねぇ。京を狙ったんじゃ拉致があかねぇ。大金を集めるなら、やっぱり江戸だ。世間を変える時節が迫っている”と一味を集めて怒ったように激を飛ばしたんです。東海道を江戸に向かう道中には、一件も盗みを働かず、たった十二日で京から江戸まで戻ってきました。そして千住の百姓家に一味は落ち着いて、江戸市中に出向いては盗みを働くんです。お与根が、どこでどう工面してくるものか、あたしに口入れ屋を通して、大店に住み込み奉公できるように差配します。そうして、奉公にあがって数日の後には……」
「お店の木戸を開けさせて、押し込むってぇ寸法か」
「それにしてもむごすぎます。押し入ったお店の奉公人をなぶるように斬り殺すなんて」
「まったくだ。お千恵さんもお千佳ちゃんを人質にとられて、嫌々に引き込みを務めていたんだろうさ。そいつぁあ、言わなくても俺にゃあ分かる。さて、お千佳ちゃんを連れたお千恵さんが文蔵の百姓家から逃げたと文蔵に知れちゃあ……」
「お父っつぁんは、もう十年会っていないけれど、お父っつぁんはあのまんま病で死んじまったんでしょうか」
お千恵が涙を浮かべて円朝を見た。
「そいつぁあ、明日にでも下谷坂本村に出向いて俺が確かめて来るとしよう。文蔵の一味も宿場町の千住を夜捜しには来られないだろう。目立つからな。さぁ、お千恵さん。明日は久米吉さんの処へ戻ってあげるがいいや。自身番に名乗って出るかどうか、久米吉さんと話し合って決めるが良いや。もうお休みよ」
と円朝がお千恵を諭したときだった。
じゃーん、じゃーん、じゃん、じゃん、じゃん、じゃん……。
半鐘が千住の町に鳴り響いた。
「火事かっ」
円朝が嘉納屋の二階の窓を開けた途端に、守蔵が飛び込んで来た。
「しっ、師匠。湯島から本郷にかけての火事らしいですぜ。お宅が巻き込まれているかも知れねぇ。さぁ、早く駕篭に乗っておくんなせぇ。湯島まで駆け抜けて行きまさぁ」
「いや、守蔵さん。伸兵衛さんと一緒に、この嘉納屋に留まってくれ。こちらのお千恵さんとお千佳ちゃんを、もしものときのために守ってやってもらいてぇんだ。俺ぁ独りで、湯島まで駆けて戻るぜ。しっかり守ってやってくんねぇ。頼んだぜっ」
遠くに火の手が見える江戸市中、湯島に向かって夜闇を駆け出した円朝であった。
千住の宿場を背にして橋戸町を駆け抜ける。長さ六十六間の千住大橋を渡る。
小塚原町で道を折れて、下谷通新町に出た。真養寺と西光寺の前をいっさんに駆ける。 日光街道の広い道に出た。このまま駆け抜ければ三ノ輪、下谷金杉を抜け、上野の先に湯島、本郷の町がある。
下谷金杉町の竜泉寺あたりまでたどり着いたときには、火事から逃げて来るおおぜいの人混みがとすれ違うようになった。
「お花っ、おっ母さんの手を離すんじゃねぇぞ、生涯ぇ会えなくなるぞっ」
大八車に家財道具を積んで逃げてくる親子がいる。
幼い娘の手を痣がつくほどに強く握って離さずにいるのは、母親なのだろう。
着の身着のままで逃げて来た者もいる。寄り合いに噂話を交わす者もいた。
円朝は駆けながら、寄り合いの者たちの交わす話を耳にした。
「湯島の茶道具屋から火が出たってぇことだ。湯島はあっという間に火の海だってぇぜ」
立ち止まらなかった。円朝は湯島に向かって駆け続けた。
「町火消しだけじゃねぇ、本郷の前田家の加賀鳶の火消し衆が湯島に向かって火消しに向かったってぇ聞いたぜ」
群衆は立ち止まり、口々に火事の噂を話していた。
下谷金杉上町から坂本町に向かう。湯島まではあと五、六町を駆ければたどり着く。
人混みはますます密集してきた。すれ違う人とぶつからないように円朝は駆ける。
着の身着のままの者、衣類や家財道具を入れたのか、風呂敷包みを頭に乗せて逃げ出してきた女。大八車に荷を載せて、引いて走るのは、お店の者たちだ。
ある程度の大きな商家では、土蔵を屋内に構えている。
いざ火事というときには、商品や家財道具は土蔵に運び込み、目塗りを入念に施す。
密閉状態の土蔵である。火の手が迫り、外壁は焼けても、内側に運び込んだ品々は焼けずに済む。それでも、もしも蔵が焼け落ちることがあれば、商品も家財道具も焼けて無一文となってしまう。 わずかな商品でも保っていれば、それを元に商いができる。
実際、焼け跡に掛け小屋を立てて、まだ煙がくすぶろうかという自店で戸板に商品を並べ、臨時営業をする商家は珍しくない。その気っ風が江戸っ子の誇りでもある。
商いの元となる金子と商品をわずかでも大八車に載せて、火事から逃げる者にはお店商人が多い道理である。そうした多くの大八車の列にも円朝はすれ違った。
「おぅ、どけどけっ。道をあけろ、あけねぇかっ」
ひときわ列の長い大八車たちの前に立って、十手を振りかざしている者が見えた。
岡っ引き風情である。鼻の右に黒子がある。裾はしょりに黒股引が足もとにのぞく。
「湯島の茶道具屋、井汲庵の所帯道具のお通りだ。加賀様御用達の品に傷をつけちゃぁならねぇ。おぅ、どけどけ。どきやがれ」
加賀藩前田家に出入りする茶道具屋の井汲庵なら円朝も知っている。間口は小さいが、その身代は三万両ともいわれるほどの茶器、花器、書画、骨董を商う店である。
商いの規模は大きいが、店主の治兵衛と若い番頭の二人で切り盛りしている店である。