第一話 「三日女房」(32)

小吉はにやりとしてこう言っただけだった。
「それゃ、尋ねる相手が違っているぜ。伊平次の棟梁にお聞きなさるがいいや」
お千恵は意を決した。
「ねぇ、小吉っつぁん。今から早駕篭に乗って江戸へ戻ろうよ。今から急ぎで戻れば、下谷の坂本町に伏せっているお父っつぁんを連れて逃げられる。そうすればお与根や文蔵が手下に、お父っつぁんを殺す指図の手紙を送り届ける前にお父っつぁんを救い出せるよ」
小吉の着物の裾にすがりつくお千恵に小吉は黙って笑ってみせた。
「そうしてぇところだが……。ねぇ、文蔵の頭目、どうしますぃ」
二本松の幹の後ろから姿を現したのは、文蔵だった。
「ふふ。まだそんなことを思案していやがったか、この女(あま)。お前ぇは俺たちからぁ逃げられないよ。まだまだ道中につきあってもらうぜ」
「次は箱根を越えて、三島宿での仕事でござんすよね。文蔵の頭目」
うれしそうに小吉が笑った。
千住の平宿、嘉納屋の六畳間で、円朝はお千恵の打ち明け話を聞いていた。
「それがあたしが文蔵一味に手を貸したはじめでした」
円朝は腕組みをした。
「そっから先ぁ、察するだけ野暮ってぇことだね。お千恵さん」
「東海道を行ったり来たり、三年ほどはそうして街道の盗人働きを続けました。京に上って六年ほどなりをひそめていたんですが、江戸へは戻らず仕舞いでございました」
「ほぅ、京でねぇ」
「ええ、文蔵一味は大工や左官、飴売りや夜鷹うどんなどの仕事衆に身を潜めて、京の町に馴染み住まいを続けたんでございます。あたしとお千佳は、文蔵とお与根の母倅と一緒に、高台寺近くの下河原町の空き家に入りました。文蔵は江戸の商家の分限者という触れ込みで、仕事もせずに暮らしていました。あたしは文蔵の女房という触れ込みだったんです。ときおり、用事があるといって、出かけておりました。誰かと会っているようでしたが、あたしには知るよしもありません。ただ文蔵がいない間は、お与根に見張られる目が怖くて怖くて」
「それを尋ねるのを忘れていたぜ。お千佳ちゃんは、いってぇどこで生まれたんだぃ」
「藤枝宿の材木問屋、打木屋の引き込みのため、女中奉公に行くようにと文蔵から命じられたときでした。お与根がじろりとあたしを見て“お待ち”と言ったんです」
「おなかに稚児(ややこ)が宿っているのを見抜かれたってぇわけだね」
「ええ、引き込み役が務められないってぇことで、打木屋への奉公は取りやめ、盗みに入るのも取りやめとなったんです。あたしはほっとしました。この子を生んだのは、島田宿に着いたときでした。でも文蔵もお与根も初めは、文蔵の子だと思い込んでいたんです」
お千恵はすやすやと寝息を立てるお千佳を見やっていた。
「そりぁ、お千恵さん……。するってぇと」
お千恵は、うつむいてコクリと首を縦に振った。円朝は、お千恵が語り出すのを待った。
「沼津宿での盗み仕事のあとに、酒に酔った文蔵に無理やり……」
言葉は、そこで途切れた。しばらくして円朝が言った。
「そうかい、辛ぇことを思い出させちまったなぁ」
「京で暮らし始めて、お千佳が五つから六つになって。面差しが久米吉っつぁんに、だんだん似てきて、その頃です。文蔵が荒れるようになったのは」
文蔵は京の町で、誰かと会食を繰り返す日々だった。
高台寺近くの下河原町の家に戻ってくると、お千佳に手をあげた。
「俺にゃ似ていねぇ。でぇいち、俺がお千恵を可愛がってやった日から八月余りで生まれるなんざぁ、早ぇじゃねぇか」
殴られ、蹴られて泣きじゃくるお千佳だった。
お千佳はいつしか、話しかけても口をきかない子どもになってしまっていた。
成長も止まってしまったかのように痩せて、背は伸びなくなった。
笑い顔も消えてしまった。ただ、怖ろしいことがあると泣くばかりの子になっていた。
文蔵は、そうしてはお千恵をにらみつけて言うのだった。
「お千恵、手前ぇ、俺の前に艶男(いろ)がいやがったな。どこのどいつだ。その野郎を叩っ斬ってやる。ええぃ、このがき娘もぶち殺してやらぁ」
するとお与根がくっくと笑いながら言うのだった。
「それなら、それで好都合さね。江戸の伊平次を殺すとお千恵に言う手間がはぶけるってぇもんさ。何しろ、引き込みに入るのを嫌がれば、いやさ、あたしらから逃げ出す了見を持ちやがったりしたときにゃ、お千佳を殺しちまうと言えばお千恵は言いなりになっておくれだよ。お千佳は、あたしが手元に置くよ。あたしが、ふふふ、孫として可愛がって手なずけてやるまでさね。ふふふ」
その言葉通り、お与根は、お千佳からかたときも目を離さなかった。お千恵は一味から逃げ出すことがますますできなくなったのだった。円朝は伏し目に苦笑してつぶやいた。
「文蔵か、盗人の他の色事にゃぁ睦稔とみえる。惚れた女を無理やりに連れ回したところで、惚れ返しちゃあくれねぇものを。文蔵って奴は女心が分からねぇ野郎だなぁ」
「えっ、何のことです」
お千恵の目が大きく見開かれた。
「好造と小吉と言ったかね、その伊平次さんの若い衆だった野郎どもは。その二人に十年前ぇにばったり出くわしたのが、久米吉さんとの別れのきっかけになったんだとお千恵さんは思うだろうが、解せねぇとは思いなすらないかぃ。ただの引き込み役ってぇんなら、盗人了見に染まった女を一味に引き入れりゃぁ済むものを。どうして文蔵はお千恵さんを無理やりに東海道の盗人道中に連れ込んだと思いなさるね」
「そ、それは……」
「惚れやがったのよ。おそらく文蔵はお千恵さんに惚れたんだ。伊平次さんとの関わりはまだ謎が解けねぇが、文蔵がお千恵さんを一味に加えた心づもりは、それで読める。だがねぇ、お千恵さん、一度だってほんの寸刻だって、文蔵に情を通わせたことはあるかい」
「そんな、あんな男に情をかけるだなんて、あたしはお千佳とその父親である久米吉っつぁんの他に、あたしの安堵できる所帯はないと思って、思い詰めてきました」
「だろうな。ところがそんな女心を力づくでねじ曲げられると思っていやがる了見違ぇの男も、この世間にはいるってぇことだ。そうなんだよ、お千恵さん。なるほど……」
円朝は、布団の上にすやすやと寝息を立てるお千佳の顔を覗き込んだ。
「なるほど、面差しが久米吉さんに似ているなぁ。ねぇお千恵さん、久米吉さんは、誰もいねぇ手前ぇの長屋の部屋に向かって、毎朝“お千恵、行って来るよ”と挨拶を続けていらぁ。それこそが心底に惚れ合うってぇことじゃねぇのかぃ」