第一話 「三日女房」(31)

お千恵が、東海道を無理やりに連れて来られた理由を知るのは、小田原宿でのことだった。文蔵の一味はやはり三々五々に小田原入りした。
小田原は箱根の山の関所を控えた直前の宿場町であり、東海道で随一の繁華な宿場町として栄えている。豪農、豪商も多く点在している。
宿場はずれの空き家に文蔵一味は集まった。車座に座った。お千恵も座らされた。
お与根が上目づかいに一味に言った。
「質屋の名は、丸橋屋だよ。江戸から京に上る道中で金子に困った者が、箱根越えの前にこの質屋で根付けやら、懐中金仏の像やら、香入れや、煙草入れや煙管まで、とにかく金に換えていくらしいやね。それだけなら、たいした身代になりゃしない。参勤交代で江戸から国許へ帰る道中の大名も、密かに大名家伝来のおたからを金子に換えて、旅支度の御用金に充てていたってぇ噂もあるのさね。丸橋屋じゃあ、そうした集まったおたからを江戸の商家に送っては、大金に替えて、たんまりと儲けているってぇからくりさね。丸橋屋の金蔵にゃ千両箱がうなりをあげて、お前ぃたちが来るのを待ち受けているよ」
お与根は、にたりと笑った。
「それだけに戸締まりは厳重だし、物置蔵、金蔵の鍵も二重、三重にかけているそうだよ。こりゃぁ、丸橋屋の見取り図なしには、うかつに忍び込めないよ。それに引き込み役が要るさね。さぁ、お千恵。お前ぃさんの出番だよ。丸橋屋に住み込み女中として奉公して、あたしらにまずは見取り図を渡すのさね」
言ってお与根は、書面をお千恵に差し出した。偽の人別帳の写しだった。
「今日からお前ぃさんは、お多根と名を変えて、丸橋屋に奉公にあがるんだ」
人別帳は江戸の住民戸籍簿である。どこから仕入れたものか、お与根は、年格好がお千恵とそっくりのお多根という女の人別帳の写しを用意していた。
お千恵は目を丸くして、断った。
「嫌です。そんな大それたことを、あたしは……」
お与根は顔に凄みを増してお千恵に迫った。
「江戸の下谷の坂本村にゃあ、文蔵の手下を残してきてあるんだ。あたしか文蔵かが、江戸へ手紙を一通送りゃあ、伊平次の命はそれまでさね。それでも断るというのかね」
わっと泣き出すお千恵であった。その様子を冷めた目で見たお与根であった。
「さぁさぁ、ひとしきり泣いてもらって、泣き止んだら、丸橋屋にご奉公だ。いいかい、あさっての晩までには、屋敷内の見取り図を描いておくんだよ」
冷徹に言ってのけたお与根であった。お千恵は好造に付き添われて、丸橋屋に向かった。
好造は丸橋屋の番頭に話をつけた。
「このお多根は、あっしのかかぁでござんすが、夫婦一緒にお伊勢参宮に向かっておりやした。ところがこのかかぁが通行手形を無くしちまって、箱根の関所を通していただけないんでございまして、あっし一人が伊勢参宮に出向いて、また江戸へ戻って参りやす。それまでの間、このお店にご奉公させていただきたく、小田原の口入れ屋、相模屋さんからこうして人別帳をもとに身元のしっかりした証文をいただいておりやして……」
この話をすっかり信じてしまった丸橋屋の番頭だった。
お千恵は丸橋屋の女中として住み込みで働くことになった。
そして三日め。旅姿の小吉がやって来た。お客として羅紗の煙草入れを質入れした。わずかな商談を交わす間に、お千恵から丸橋屋の屋内見取り図を受けとったのだった。
その後も、文蔵の手下が旅人に変じて、丸橋屋を訪れた。
奉公人の人数、寝間の位置、金蔵の鍵の数、その鍵の在りかを探せとの指示。
そうして二十日余りが過ぎた。お千恵は丸橋屋の玄関を水打ちに出たところだった。
後ろから、つぶやく声があった。
「今夜だ。今夜、子の刻、夜九ツに店の裏木戸の鍵を開けておけ。あとは俺たちが仕事をする。お前は裏木戸を開けたら、小田原宿の宿外れの二本松の根本で待っていな」
侍に化けた文蔵の手下だった。ごくりとお千恵はつばを飲み込んだ。悩んだ。
自分が裏木戸を開けておけば、丸橋屋は盗みに入られる。
開けておかなければ、江戸で病床に伏せっている伊平次が殺される。
その夜、子の刻、九ツ。お千恵は、震える手で裏木戸の鍵を開けた。
店を出て走って、宿場はずれの二本松のところまで逃げた。
このまま逃げてしまおうかとも思った。
「でもそれじゃあ、江戸にいるお父っつぁんが」
殺されると思って二本松の根本にしゃがみ込んだ。震えて夜明けを待った。
明け六ツ。小吉が迎えに来た。
「ゆんべの仕事がいくらになったのかは、文蔵の頭目しか知らねぇやね。だが俺の見たところ、千両は越えた仕事だろうぜ」
お千恵は、すがりつくようにして小吉に尋ねた。
「人をあやめたりは、しなかったろうね」
「ご安心をお多根、あっ、いや、お千恵お嬢。一人も殺しゃあしなかったよ。もっとも女中の何人かは、さらったがね」
「どうして、そんなことを」
「今ごろは、好造の兄ぃたちが、さらった女を早駕篭に乗せて、平塚宿の女衒に会っている頃だぁね。戸塚宿、遠くは川崎宿や品川宿にばったで売り飛ばす算段をしているやね」
女衒とは、遊女を売買する仲介人である。
「川崎や品川の飯盛り宿でも、裏宿のなかの裏宿に売られるのさ。部屋で男の客を取らされるだけの生涯だ。女郎屋の部屋から逃げ出すこともできゃしねぇような飯盛り宿さ」
お千恵はがく然とした。
「どうしてそんなことを……」
「盗人に入られた丸橋屋からお多根さん、ふふ、いやさ、お千恵お嬢だけが姿を消したんじゃ、お千恵さんの人相書きを作られて、そこから、俺たちの足がつく。女中たちの何人かがいっぺんに姿を消せば、女郎屋に売られた足取りを追っている間に、俺たちは高飛びができるってぇ、算段さ。お千恵さん、いやお多根ってぇ女も、女郎屋に売られた一人だろうと役人たちは思いこむに違ぇねぇ。文蔵の頭目、いやさお与根さんのお知恵にゃあ、俺ぁ感心するぜ」
小吉が腕組みをしながら、二本松の枝ぶりを高々と見上げた。
お千恵は震えながら小吉に尋ねた。
「ねぇ、小吉っつぁん。それに好造さんも、お父っつぁんの下で大工ってぇ堅気の仕事をしていたというのに、どうして盗人仲間なんかに入るはめになったんだぃ」