第一話 「三日女房」(30)

わずかに目を開け、伊平次はお千恵を見た。お千恵を認めた途端に、伊平次は布団のなかでわなわなと震え始めた。布団から手を出した。手も震えていた。細くやせ細った手だった。お千恵は伊平次の手を握った。
「お父っつぁん……」
伊平次は返事を返す代わりに、涙をひとしずく流した。
くぼみ落ちた両まなこでお千恵を見つめていた。声はなかった。
すーっと色あせたふすまが開いて、どかどかと男たちが入ってきた。
そのなかでも頭目格の男がお千恵の反対側の伊平次の枕元にどかっと座った。
「おぅ、父っつぁん。うわ言に名を呼んでいた娘に会わせてやったんだ。そろそろ隠居金の隠し処を明かしてくれてもいいだろう」
野太い声だ。その声にお千恵が見上げると、肩のがっしりとした、背は低いが、いかつい顔の男が見下ろしていた。
伊平次が苦しそうに、か細い声を振り絞った。
「俺にゃあ、隠居金なんてねぇ。隠し金なんてものはねぇんだ」
お千恵は伊平次の手を握っていた。
野太い声の男は、いきり立って寝ている伊平次に怒鳴った。
「やい、じじぃ。いい加減にしやがれ。手前ぇに仕事の手ほどきを受けた恩義で、病に野たれ死にする寸でのところを拾ってやって、こうして殺さずにいてやっているんだ。吐かねぇか、死にかけじじぃめっ」
小吉が、いきり立つ男をなだめて言った。
「まぁまぁ、文蔵の頭目。お怒りをおしずめなすってくんなせぇ。へへ、伊平次の棟梁の口を割らせるのは、あとの仕置きってことで」
それでも、文蔵の怒りは収まらなかった。が、文蔵はお千恵を認めるとにやりと笑った。
「おぅ、お千恵さんとやら、俺たちと一緒に来てもらおうか」
「そ、そんな。あたしには帰るところがあるんです。それにお父っつぁんがこんな具合なのに、一緒になんて……」
「ならっ、このじじぃをたった今、ぶっ殺しちまうぞっ」
文蔵は伊平次の額に五寸釘を突きつけてお千恵を脅した。
伊平次は覚悟を決めたように静かに目をつぶった。お千恵の手をふっと離した。
お千恵は伊平次の手の力が抜けたことにはっとして、
「お父っつぁん」
と声をかけた。伊平次が離した手を好造が引っ張ってお千恵を無理やり立せようとした。
「おぅ、伊平次の父っつぁん、また来るぜ。それまで娘は預かっておく。ふふ、働いてもらうぜ。俺たちに隠居金の在りかをしゃべるまではくたばらねぇでいやがれよ」
文蔵が暗い部屋を出て行く寸刻にお千恵は伊平次の枕の下に、すいっと入れた。
髪から抜いた珊瑚の赤いかんざしであった。久米吉からもらったかんざしだ。
「お父っつぁん。このかんざしを売って、金に換えて医者の療治を受けておくれよ。ねぇ、お父っつぁん。あたしはどこにいても達者でいるから、お父っつぁんも早く達者になっておくれよね」
こくんと伊平次の首が縦に振られたように見えた。
「さぁ、お千恵お嬢、さっさと来ねぇか。文蔵の頭目がお待ちかねだぜ」
好造が手を引っ張ってお千恵を無理やりに立たせ、粗末な家屋から秋の満天の星空のもとへと連れ出した。
「そして連れて行かれた先が、さきほどの千住の百姓家だったってわけかい」
こくりとお千恵は首を縦に振った。
「そうした三日ほどは、百姓家にいたんです。あたしは逃げ出そうと思ったんです。けれど、いつも文蔵の手下に見張られていました。文蔵はときおり出かけました。坂本村のお父っつぁんの処へ出かけていたんだと思います。そうするうちに旅支度を調えて」
「ほぅ、江戸を離れたってぇのかい」
「はい、千住から下谷を通って品川へ。途中で坂本村を通りました。ああ、ここにはお父っつぁんが病気で寝ているんだ。今すぐ会いに行きたい。そして神田から日本橋を通り過ぎるときには、ああ、ここには久米吉っつぁんが、あたしを待っている。いますぐに帰りたい。そう思うものの、匕首を構えた文蔵の手下たちに囲まれて、ついに品川の宿場まで連れて行かれたんです」
文蔵は七、八人ほどの手下たちに指図をした。
「大通りは避けろ。目立たねぇように裏路地を使って品川まで行くぜ」
七、八人がそろって品川を目指すことはしなかった。文蔵は一人で、ある者は二人組で、ある者は三人組となって、路地道を選んで歩き、品川の宿場町を目指したのである。
「お千恵さん、好造の兄貴と夫婦者ってぇ了見で、品川宿まで来てもらおうか」
小吉が匕首の刃をちらつかせながら言った。有も無もなかった。お千恵は着の身着のままで東海道の最初の宿場、品川まで好造、小吉と同行するはめになったのである。
品川の飯盛り宿に文蔵の一味は三々五々に集まったが、泊まり部屋はまちまちに取った。 ある者は遊女と遊び、ある者は酒を飲み、ある者はおとなしく寝た。
旅籠の廊下ですれ違っても、お互いに挨拶すら交わさなかった。
お千恵は好造と同じ部屋に泊められることになった。
その晩、お千恵は一睡もできなかった。これからどうなるのか、どうしたらいいのか。
品川宿を出るときも、文蔵は一人で、手下たちは二人組、三人組となって東海道を上った。川崎宿を過ぎ、神奈川宿で文蔵たちは、旅籠ではなく、廃寺のお堂に集まった。
そのお堂で待っていたのは、お与根であった。文蔵の母親である。お与根は言った。
「調べはつけておいたよ。老松家という酒問屋がこの神奈川宿の本陣、旅籠で出す酒を一手に引き受けているんだ。金のありかは屋内の土蔵蔵さね。主人夫婦の寝間の隣だよ。これが老松家の見取り図だ。さぁ、お前ぃたち、今夜はしっかりお働きよ」
お千恵は、お与根の言葉で初めて文蔵一味が盗人たちであると知った。
同時にどうして伊平次の若い衆たちだった好造と小吉が文蔵の一味に加わっているのかが解せなかった。お千恵はお与根に見張られながら、廃寺のお堂で一味が真夜中過ぎに戻ってくるのを待った。老松家から盗み出したのは二百両だった。一味の者は脇差しを腰にたばさんでいたが、老松家の者をあやめたり、怪我を負わせたりした様子は伺えなかった。