第一話 「三日女房」(29)

あとに残った久保田屋の奉公人は一人辞め、二人辞め、ついには店じまいをしてしまったのであった。そうした間も、お千恵は、おちゃないを二年ほども続けたという。
「秋の日でした。いつものように、おちゃないの行商に歩いているときでした。神田橘町でお店を普請している大工たちを見かけました。“あぁ、お父っつぁん”と思い出しながら、ふと大工たちを見ると、懐かしい顔がありました。九つのときに、箪笥商の井筒屋さんを普請していた達五郎の棟梁と、そこで働く若い衆たち。その若い衆のなかに懐かしい顔を見つけたんです」
「働いている久米吉さんだったってぇわけかい」
円朝の言葉に、お千恵ははっとした。
「く、久米吉っつぁんをご存じなんですか。どうしていますか。達者でいますか」
食らいつくように、円朝にひざを進めるお千恵だった。
「あぁ、昨日、朝に仕事に出かけて行く姿を、俺ぁは見たよ。達者だ。ご安心しな」
はぁ、とお千恵はため息をついた。肩を落とし、畳に身体が沈むように脱力した。
「良かった、あぁ、良かった。久米吉っつぁん。達者なんだねぇ」
自分に言い聞かせるようにつぶやきながら、お千恵は身体を震わせていた。
泣いているのだった。ぽたりと涙のしずくが畳に落ちた。静かにお千恵は言った。
「目が合ったんですよ。ええ、久米吉っつぁんとは目が合ったんです。でもあちらは二階屋に登っていましたからねぇ。あたしには気がついていない様子でした。九つで初めて観たときからはずいぶんとたくましくなっていて、そりゃそうだ。あの日から十年以上も経っていたんだもの」
「惚れなすったのかぃ」
こくんとお千恵は、首を縦に振った。黙ったままだった。はにかみ笑いに言った。
「あとをつけたんです。いけないって思いながら、あたしはあとをつけていったんです。神田竪大工町の長屋に、あの人は帰っていきました。一人で顔を洗って、一人で長屋の畳に大の字に寝そべって。疲れているんだなぁって思いました。そのとき、あたしは駆け出したんです。おちゃないの風呂敷を抱えて、かもじ屋さんに飛び込んで。その日のわずかなあがり賃をもらって、店仕舞い寸前の八百屋でねぎとごぼうを買って、八百屋から駆け出して、通りすがりのぼてぶりの魚屋から、塩漬けの鰯を買って、駆けて駆けて、出会った卵売りから、卵を買って、また駆けて駆けて、ぼてぶりの豆腐屋は豆腐を売り切っていたので、油揚げを買って、そうです。その日の稼ぎを全部、買い物しちまったんです。息を切らして、神田竪大工町の長屋に着いて、息を整えてから思い切って、久米吉っつぁんちの木戸を開けました。そっから先は夢中でした。“久米吉っつぁんは、あたしを迎え入れてくれるだろうか”って思いながら台所に立って。なんでだろう、なんであんなに夢中だったんだろうって思います」
お千恵はいっきに語った。遠い日を思い出すような目をしていた。
「でも」
お千恵は円朝と目を合わせた。
「でも、あんな気持ちになったことは後にも先にもそれっきりでした」
「ふぅー」
話を聞いていた円朝は、苦笑しながらため息をついてみせた。
「それが心底、惚れるってぇことかもしれねぇな、お千恵さん」
円朝はまた、行燈の灯心皿に菜種油を注ぎ足しながらお千恵に相づちを打った。
お千佳は、布団の上ですやすやと寝息を立てていた。
行燈の明かりが油を得て、ぽうっと光を増した。
千住の平宿、嘉納屋の六畳間が明るくなった。円朝が尋ねた。
「それほど惚れなすった久米吉さんの処から、たった三日でいなくなったのはどういうわけですかい」
「三日……。そう三日目の晩でした。晩酌の酒が切れたので、あたしは徳利を抱えて、夜商人の屋台あたりで酒を買おうと竪大工町の長屋を出たんでした。長屋の木戸を開けて往来に出て、大通りを柳原の土手あたりに向かおうと歩いているときでした。そこで……、会ってしまったんです」
「出会った。誰にだぃ」
「小吉と好造にです。三年前までお父っつぁんの伊平次の元で若い衆を務めていた大工でした。まったく出会い頭というふうで、二人は路地裏から大通りに顔を出したところでした。あたしはびっくりしちまって、こんな夜更けにどこへお出かけだいと」
お千恵は尋ねたという。
小吉は、ばつが悪いという様子で、にたにたと笑いながら仕方なさそうに答えた。
「どこへって、遣いの帰りでさぁ、お千恵お嬢さん……」
お千恵が見ると、二人とも着物の裾をはしょっていた。
「遣いって、こんな夜更けに普請ごとかい。お父っつぁんの、伊平次のお指図かい」
好造が苦笑いしながら、馬鹿にしたような口調で答えた。
「伊平次の棟梁は……、へっ、もう使いもんにも何もなりゃしねぇや」
「しっ」
と好造の言葉を小吉が止めた。
だが、その言葉をお千恵は聞き逃さなかった。徳利を抱えたまま尋ねた。
「使いものにならないって、そりゃどういうことだぃ」
小吉が舌打ちをした。
「見られちまっちゃあ、しょうがねぇな。お千恵お嬢、伊平次の棟梁に会いたいかい」
「そ、そりぁ、会いたい。会いたいよ」
「そうかい、そんならついて来なせぇ。ご案内するよ。ただし、驚いちゃいけねぇぜ」
どこをどうついて歩いていったものか、下谷御切手町にほど近い坂本村の一軒家に着いた。息が切れていた。もう江戸のはずれである。
静蓮寺という寺の裏に建つ古ぼけた一軒家。色あせた布団に横たわっていたのは、懐かしい伊平次だった。頬がこけ、顔色がどす黒い。あきらかに病気だ。
お千恵が枕元に座っても、伊平次は気がつかない様子だった。
お千恵の後ろに小吉が座り、後ろに好造が座った。
「お父っつぁん、どうしてこんな姿に」