「ええ、あたしは、本当のお父っちゃんもおっ母さんも知りません。どこで生まれたのかも知りゃぁしません。でもあたしのお父っつぁんは、大工の伊平次なんです」
お千恵がぐっと唇を噛みしめて、円朝に言った。
十四のとき、拾い子だと打ち明けてからも、伊平次は、これまでと変わりなくお千恵を我が子として可愛がった。久保田屋から届く金は、二朱金四枚が二枚になり、一枚になり、一年と経たないうちに、まったく届かなくなった。
だが伊平次は気にかけなかった。普請仕事は絶え間なく請け負っていた。その頃には若い衆を七人、差配して普請をする棟梁として、大工の腕を振るった。
「お父っつぁんは、春先になると相変わらず木曽路に旅に出ました。おそらく、あたしの知らないおっ母さんの墓参りに出向いたんだと思います」
お千恵はうつむいていた顔をあげて、円朝を見つめて語り始めた。
「春には大川端に満開の桜を観に行って、夏には井戸水で冷やした瓜を二人で食べて、秋には虫の音を聞きながら、その日の普請場でのできごとを聞かせてもらって、冬にはあたしの縫ったどてらを着たお父っつぁんと湯豆腐の鍋を囲んでお酒のお酌をして、そんな日々が続くものと信じていました」
久保田屋の満作が亡くなった跡を継いだのは、婿養子だった。満作には男の子がいなかった。娘のお福に養子縁組に入って久保田屋を継いだのは、番頭の己之助だったのである。
表向きは、久保田屋はこれまで通りの米問屋を商っていた。
久保田屋は出羽の国、秋田藩の出身で、外様ながら二十万石の佐竹藩の米を商ってきた。
満作の代までは、佐竹藩の米だけを扱うという家訓を守ってきたのであった。
ところが婿養子、己之助は、商いを広げようとしていた。
常陸国、新庄家一万石の麻生藩や、山口家一万石の牛久藩、下野の国、大関家の黒羽藩の江戸屋敷詰めの勘定方の重役武士たちと、料亭で密会を進めているという噂だった。
「久保田屋さんは、常陸や下野の米も商うつもりらしい」
「そんなことをしたら、常陸の米を商っている米問屋や下野の国の取り引きをしている米問屋さんたちが黙っちゃいないだろうにさ」
「いやそうじゃなくて、出羽の国が凶作で、米不足になったときに、常陸や下野の米を融通するらしいよ」
日本橋界隈の町人たちは、しだいに久保田屋己之助の噂話を交わすようになった。
久保田屋己之助の立ち回りが忘れられた頃に、それは起きた。
「聞いたかい。久保田屋が日本橋霊岸島の米問屋大津屋を買い取るってぇじゃねぇか」
「久保田屋が新しいお店と外蔵を建てるってぇんで、日本橋小網町あたりの表店も裏長屋も立ち退けってぇ言い分だそうだ」
「久保田屋は米相場を握る腹づもりだそうだ。これからは高ぇ米を買わなきゃならなくなるんじゃねぇか」
「大津屋の乗っ取りの金、小網町の立ち退きの金はどっから工面しやがったんだろう」
立ち退きを迫られた小網町の住人たちは奉行所に訴えたが訴状は一蹴された。
奉行所にも、久保田屋が手を回したのだと噂が立った。
「久保田屋は二万五千両の金を用意しているそうだ」
「大津屋は次々と奉公人が辞めて、番頭さんは首を吊ったそうだよ。可哀想にねぇ」
「持ちつ持たれつ、助け合うのが江戸っ子じゃねぇのかぃ。世間の儲けを独り占めしようってぇ了見が気に入らねぇ」
「でも、高い米でも買わなきゃ食っていけやしないよ。もう久保田屋の言いなりになるしかねぇんだ、俺たちゃぁ」
そんな嘆きが、そこかしこで聞かれるようになった。
千住の平宿、嘉納屋の行燈の明かりに照らされながら、お千恵はふっと天井を見上げて円朝に言った。
「そんな騒動が持ち上がったのは、あたしが十七のときでした。お父っつぁんが心配していたのは、こういうことだったのかと、あたしは思いました。そしてそのときが、お父っつぁんとあたしとの別れになったんです」
天井を見つめたまま、思い出すようにお千恵は言った。白いうなじが行燈に映えた。
円朝が切り替えした。
「ほぅ、別れねぇ。どうしたんだい」
「ちょうど今時分でございました。桜の花がそろそろ咲こうかという春でしたっけ」
伊平次は独り言をつぶやいていたという。
「小網町の長屋の皆んなのためだけじゃねぇ、まして大津屋さんのためじゃねぇ、このままじゃ、久保田屋が了見違いをしでかしちまう……。やらなきゃならねぇ。そのときが来たんだ。やらなきゃならねぇ。やらなきゃなぁ」
つぶやく伊平次の背中を十七歳のお千恵は黙って見つめていた。
伊平次は、はっと振り向いて言った。
「お千恵、俺ぁ、お前ぇを誠の娘だと思って暮らしてきた。お父っつぁんは、どこにいてもお前ぇのことを案じているよ。それだけは忘れねぇでくれ」
険しく、哀しい目をして、伊平次はお千恵に言ったという。夕餉の膳を囲みながらも、伊平次は険しい顔を崩さなかった。春浅い寒い夜、二人は枕を並べて眠りに就いた。
「その次の朝、お父っつぁんが寝ているはずの布団にお父っつぁんはいませんでした。朝餉も食べずに、もう仕事に出かけたのかとあたしは思いました。でも、夕刻になっても、お父っつぁんは帰ってきません。次の日も、その次の日も。そうお父っつぁんは、消えてしまったんです」
「そいつぁ……」
久米吉のところからお千恵が消えたのとおっつかっつじゃねぇのかい、という言葉を円朝はぐっとこらえた。
「しばらくは田所町の長屋でお父っつぁんを待ち続けました。でも、帰っては来ませんでした。あたしは、口入れ屋を通じて、近くの煮売り屋の仲居として働き始めました。それも一年ほどで辞めて、おちゃないの行商に歩くようになりました。十八のときです」
おちゃないとは、抜け落ちた毛髪を買い取り、それを、かもじ屋に卸し売る行商である。
かもじ屋は、付け髪、かつらなどを作る職人店である。
毛髪を入れた風呂敷を頭に乗せて「おちはないか」すなわち「落ちた毛髪はないか、買い取るよ」の掛け声が訛って「おちゃない」と呼ばれるようになった。
久保田屋の噂が聞こえてきた。
大津屋を買い取る話は断ち切れになり、小網町に蔵を建てる話も消えてしまったと聞いた。そればかりではない、久保田屋の経営も左前になり、主人の己之助は久保田屋に残っていた百両余りの金を持ち出して、逃げてしまったというのである。