第一話 「三日女房」(27)

伊平次はじっと一人の若い衆を見つめていた。お千恵に言った。
「箪笥商いの井筒屋さんが新普請だぁ。あの井筒屋さんを普請しているのは神田、日本橋の界隈で腕が評判の大工、達五郎ってぇ棟梁とその若い衆たちだ。さすがに良い仕事をするもんだ。なぁ、お千恵、あの若い衆を見ねぇ」
うながされて、お千恵は伊平次が指さした男の子を見た。年格好からお千恵と同い歳のように見えた。九つか、十歳に見えたわけである。
「かんなっくず拾いのこわっぱ仕事だが、兄ぃ分たちの仕事の邪魔にならねぇように工夫しながら、働いていらぁ。手も足も動かしながら、兄ぃ分たちや達五郎棟梁の仕事ぶりをそのくせしっかり見ていやがる。あの若い衆はまだ見習いの身分だが、末はきっと一人前の大工に、ひょっとしたら棟梁にまでなる器だぜ。なぁ、お千恵。男の値打ちは顔じゃねぇ、気っ風なんだ。男の値打ちは、金があるかないかじゃねぇ。仕事にどんだけ打ち込んでいるかなんだ。お千恵も、嫁付くときにゃぁ、男の真の値打ちを見定めなけりゃぁ、ならねぇよ……俺も、そう信じて今日(こんにち)まで大工を務めてきたんだ」
独り言のようにつぶやいた伊平次の言葉を、お千恵は覚えているという。
それほどにその小僧の働きっぷりは、お千恵の目に焼き付いた。
一月の寒空に、印半纏一枚で、ぼろぼろのかるさん股引をはき、誰かの履き古しのぶかぶかの黒足袋をはいた少年の姿が目に焼きついたのだった。
「あたしが十四のときでした。久保田屋のご隠居様が亡くなって」
伊平次は印半纏を着て、思い詰めたように言った。
「紋付きの喪服を着てぇところだが、何ぁに職人の裃は半纏と決まってらぁ。それにお焼香だけじゃなくて、久保田屋さんの裏方の手伝いを務めなきゃならねぇ。こんな恰好でも、満作のご隠居様はお許しくださるだろうよ」
伊平次は小網町の久保田屋の葬式に出向く支度をしながら言った。
足袋をはいて、半纏の帯を廻したとき、伊平次は長屋の畳にひざをついて言った。
「なぁ、お千恵。俺はお前ぇに隠し事がたくさんあるんだ。こんなときだが、いやこんなときだからこそ、そのひとつを聞いちゃくれめぇか」
「何、お父っつぁん。久保田屋さんは毎月、二朱金四枚を送り届けてくれていたけれど」
「その金子のことなんだが、そいつぁ今朝、亡くなった久保田屋の満作のご隠居さんから、お前ぇに届けられていたものなんだ。わけを聞いてくれ」
伊平次は十四年前の夏の朝のことを語り始めた。
大工が普請を請け負うのは、商家が立ち並ぶ江戸の繁華な町が多い。伊平次は、棟梁になったばかりの若い大工だった。日本橋小網町の老舗の米問屋である久保田屋から、
「隠居所を屋内に普請してもらいたい」
と仕事が入った。腕はたしかだったのである。
卯の刻、明け六ツ前。
まだ夜明けの星空が臨める頃、女の赤ん坊は、産着にくるまれて店前に置かれていた。
店を開けた丁稚が気がつき、手代から番頭へと知らされた。
隠居を心に定めていた久保田屋の主、久保田満作は五十歳を過ぎた頃だった。
番頭の己之助は主の満作に進言した。
「自身番に届けて、それでも親が名乗り出なければ、どこかの寺にでも預けるしかございますまい」
己之助の言葉を聞き流して、満作は赤ん坊を抱き上げた。
「うちが米問屋と知って、ここなら食わせるのに困ることはあるまいと覚悟を決めて、この赤ん坊をうちに預けていったのだろう。自身番も、寺への届けも無用だよ」
辰の刻、朝五ツには、伊平次が隠居所の普請にやって来た。
満作は、泣きじゃくる赤ん坊を、あやすが泣き止まなかった。
「どうなさったんです」
伊平次は満作に尋ねた。満作は、今朝のことの次第を伊平次に聞かせた。
「そいつぁお困りでござんしょう。ちょいっとあっしにも抱かせてみちゃくれやせんか」
そう言って、伊平次が抱いた途端に赤ん坊は泣き止んだのであった。
「へへ、俺を見て笑っていやがる。ねぇ、ご隠居様、この赤ん坊をあっしに預けちゃくれませんか」
伊平次は捨て子の赤ん坊を引き取ろうと申し出たのであった。
その赤ん坊こそが、
「お千恵さんだったってわけなんだね」
千住の平宿、嘉納屋の六畳間に静かに円朝の言葉がつぶやかれた。
お千恵は、こくりと首を縦に振った。お千佳はすやすやと眠っている。
「満作のご隠居様が亡くなった朝のお父っつぁんの顔を、あたしは忘れられません」
伊平次は哀しそうな、そして少し険しい顔をしていたという。
「久保田屋さんから、届いていた金は、満作のご隠居様が俺にお前ぇをしっかり育ててくれという頼みの金だったのさ」
きゅっと半纏の帯を締め込んで、伊平次は立ち上がった。
「満作のご隠居様がいなくなったとあっちゃあ、これからの久保田屋は」
お千恵は、伊平次にすがって言った。
「お父っつぁん、お金が久保田屋さんから届かなくなったって、あたし、働くから。心配しないでお父っつぁん。あたしはもう十四だよ。奉公にだってなんだって出て働くから」
「そうじゃねぇ、そうじゃねぇんだ、お千恵。うちの稼ぎっくらいは、お父っつぁんの大工仕事でどうにでもならぁ。今月はでけぇ仕事が入った。日本橋の大店の新普請だぁ。前金をもらって、その金で若い衆も新しく雇った。お父っつぁんはこれでも棟梁なんだ。金のことじゃねぇ、仕事のことじゃねぇ、ましてや、お千恵のことじゃねぇ。心配なのは久保田屋さんなんだよ」
伊平次は険しい顔を崩さずに、満作の葬式に出かけていったのだった。
「そうかい、お千恵さんは、そんときに拾い子だったって知らされたわけなのかい」
千住の平宿、嘉納屋の六畳間で行燈の明かりに油を差しながら円朝が尋ねた。