第一話 「三日女房」(22)

ぬっと円朝の前に現れて剣を構えた男がいる。
正眼の構えで、円朝との間合いをじりじりと詰めた。
隙がない。円朝は梶棒を構え直して男に言った。
「さては、お前ぇさんは、さむれぇらしいな」
「問答無用っ」
先生と呼ばれた男が円朝の胴を狙って兇刃を振るった。
がしっ。寸前で、円朝の梶棒が兇刃を受け止めた。
男はさっと一歩下がって、まだ刀を正眼に構えた。そのときである。
「逃げたっ、お前たち。お千恵がお千佳を連れて逃げ出したよ」
お与根の声が夜闇に響いた。円朝を取り囲んでいた男たちがお与根の声に振り返った。
「いけねぇ、あの女(あま)を逃がしちゃ、引き込み役がいなくなるぜ」
「文蔵の頭目に、どやしつけられるだけじゃねぇ。下手すりゃ殺されるぞ」
男たちはいっせいに、納屋の裏道に向かって走り出した。
ただ一人、侍らしい男が正眼に構えたまま円朝の足を止めた。
円朝は梶棒をぐんっと侍に向かって突き出した。突き伸ばされた梶棒の先をよけようとして、侍は二歩ほど後ろに下がった。そこに間合いの隙ができた。
円朝は、お千恵を狙う男たちを追って、駆け出した。
「行かせんっ」
侍は円朝の背後から疾走して迫って来る。
だが、その足よりも、円朝は速かった。納屋の裏手の細い道に駆け込んだ。
細い道の先に、お千恵とそれを追う男たちの姿が見えた。
お千恵は幼いお千佳の手を引いて、追っ手の男たちから逃れようとしていた。
お千恵の背中に、男の一人が刃を抜いて迫っていた。円朝は駆けに駆けた。
「お千恵さんを殺すわけにはいくめぇ。殺しちまっちゃあ、盗みの引き込み役がいなくなるからな。だが、お千佳ちゃんには手を出すかもしれねぇ。あるいはお千恵さんに怪我でも負わせるつもりか、どっちにしてもあの母娘が危ねぇ」
円朝と男たちの距離が縮まっっていく。背後からは侍が追いかけてくる。
刀を振りかぶった男がお千恵の後ろ襟をつかまえようと手を伸ばしていた。
その手がお千恵の背中をつかまえよとしたときだ。
ぶんっ。
円朝の放った梶棒が飛んだ。
男はつんのめって、刀を放り出し、前のめりにどっと倒れ込んだ。
梶棒が男の足にからまったのだった。
「おっとっとぅ」
倒れ込んだ男に道をはばまれて、そのあとから追いかけていた男たちが駆け足を止めた。
「いまだっ」
円朝は、とまどう男たちのわきを追い越して、
「お千恵さんっ」
言うなり、お千恵の背中に自分の背を張りつけた。楯になったかたちである。
転んだ男が立ち上がった。あとに続いていた男たちも体勢を立て直して、わっと円朝とお千恵に向かって駆けてくる。
「お千恵さん、付いてきておくんねぇ」
円朝はお千佳を抱きあげた。お千佳は九つか十にしては身体が小さい。五つ、六つの娘ほどしかない。一瞬のこと、お千恵は目を丸くして、円朝を見つめた。
突然に現れて、自分の名を呼び、娘のお千佳を抱き上げた男に驚いた様子だった。
二人の目が合った。円朝は頬笑んだ。
「なるほど、うわさに違(たが)わねぇ、べっぴんさんだぁ」
そう言って、お千佳を抱き上げたまま、小道の先に向かって走り出した。
目指すのは、こんもりとした森である。月明かりが照らす小道より、暗闇にしずむ森に逃げ込む算段である。先に立って森に駆け出して行く円朝のあとをお千恵も着いて駆けた。
円朝を味方だと信じたのだろう。円朝に賭けてみようと思ったのだろう。
「逃がすもんけぇ」
「おぅ、森んなかへ逃げ込むぞ」
「お千恵は生け捕りだぁ。男はたたっ斬っちまえっ」
口々に男たちは叫びながら、円朝とお千恵を追って来る。
円朝は森の樹間のなかを走り、五間ばかり奥まったところに伸びる太いけやきの幹の後ろに身を隠した。お千恵も隠れた。円朝は抱いていたお千佳を樹根に降ろした。