第一話 「三日女房」(20)

「円朝師匠、あの家ですかい」
声をひそめて守蔵が尋ねた。
「どうやら、そうらしい。俺ぁ、あの家に探りを入れなきゃならねえんだ。駕篭をここに駐めて、ちっとばかり待っていてくれねぇか」
円朝は駕篭を降りると、遠くにぽつりと明かりを灯す百姓家に向かった。
弘庵が描いてくれたとおり、こんもりとした森に囲まれた百姓家だった。
DSCF4004森の木々は防風林なのだろう。
百姓家の前は庭になっており、庭が途切れるあたりから田んぼになっている。
いまは春先のことで、水田には苗もなければ水も張られていない。
百姓家はその田んぼに向かって出入り口が開かれている。庭の左には、納屋が建っている。その納屋の裏手に細い道があるはずだ。その細い道は畑に通じていると地図には描かれている。納屋への出入りがしやすいように、百姓家の左側には裏口があるはずだ。
だが、夜のことで、細い道も畑も見えない。
円朝は百姓家に腰をかがめて走り寄った。出入り口の脇の板塀にぴたりと身体を寄せる。そして耳を澄ました。針の落ちる音すら聞き逃すまいとした円朝だった。
屋内から声がもれてきた。老婆の声だった。
「日本橋富沢町の薬種問屋、鏑木家が女中を一人雇い入れたいと口入れ屋に頼んだってさ。お千恵っ、お前さん、今度はお尚って名を騙って、引き込みを務めな。せがれの文蔵は、いま新しい手下を雇い入れている最中さね。明日の昼には奉公にあがって、夜には文蔵たちのために裏木戸の鍵を開けておくんさね。いいかいっ」
「そ、それは……。三晩、続けての押し込みは無理が過ぎますよ。町方の網が張られているでしょうし、それにあたしは大和屋にも柏屋にも顔を見られています。いまごろは人相書きが仕上がっていて、のこのこ日本橋なんぞに出かけりゃ、お縄んなっちまいますよ」
「だからこそ、奉行所の支度が間に合わないうちに、押し込みを済ませちまうんじゃないかね。何ぁに、お役人なんてのは、何ごとも手続き、手続きで、もたもたしているもんさね。まだ一軒ぐらいは押し込みに入っても、お前も文蔵もお縄になんぞなりゃしないさ」
「それが危ないんでございますよ。あたしも文蔵の頭目も、お縄になれば小塚原のお仕置き場に引き出されて、磔か斬首か。どっちにしろ生きちゃいられません」
「文蔵が捕まりそうになったら、お千恵、お前が楯んなって、文蔵を逃がすんだよ」
「そりゃもう分かってますよ。お与根さん。あたしの命に代えても、文蔵の頭目をお守り申し上げますから。でもねぇ、押し込みに入っても、もう人をあやめたりはしないって、約束してくださいましな。もう金輪際、人が斬り殺されるのは嫌でございますよ」
「そんな甘ぬるいことをほざくようじゃ、お前も肝が据わっていやしないね。さぁ、胆を据えて明日は、日本橋富沢町の薬種問屋、鏑木家に入り込むんだよ。分かったかい」
「でも、危のうございますよ。日本橋なんて町奉行所の網んまっただ中に飛び込んでいくようなもんじゃございませんか。あたしがお縄になったらどうするんです」
「そんときゃ、文蔵のこともあたしのことも決してしゃべるんじゃないよ。どんな拷問に遭っても、口を割るんじゃないよ。もししゃべりでもしたら……」
「いえいえ、お与根さんのことも、せがれさんの文蔵頭目のことも、口を割ったりゃぁしませんてば。命に代えても、しゃべったりはしませんから」
二人の会話に間があいた。円朝は思った。
「間違いねぇ、お与根というのが五寸釘の文蔵の母親だ。相手としてしゃべっているのは、大工、久米吉の三日女房、お千恵だ」
お与根の声が不気味に屋内から漏れ聞こえてきた。
「おーや。お千佳はぐっすり眠っているねぇ。“ねぇお千佳や、お前のおっかさんは日本橋に奉公にあがるのが嫌だと言っているよ。するとお千佳、お前が目覚めることは明日の朝も、この先もずーっとないってことになるかもしれないねぇ”。ふふふふ」
「そっ、そればかりはお与根さん、後生ですからお千佳に手を出すのはやめておくんなさいな。わっ、分かりました。明日、日本橋富沢町の薬種問屋、鏑木家に参ります。だから、お千佳だけは、殺さないでおくんなさいましな」
「殺しゃぁしないよ。お前が引き込みを続けてくれればね。何しろ、先月は病気だってんで医者にまで診せてやったじゃないか。殺しゃぁしないがね、お千恵。お前が文蔵を守りきれなかったら、あたしも鬼になるよ。お千佳の命は、そんときになくなるものと覚悟をしておきなよ」
低く、うめくように脅しをかけるお与根の声であった。
百姓家の庭先がぽうっと明るくなった。駕篭提灯の明かりだ。
「いけねぇ」
円朝が思ったときだった。
「うひぇーっ」
伸兵衛の絶叫が聞こえた。円朝は駕篭提灯の明かりに向かって走った。
駕篭提灯をぶら下げて立つ伸兵衛を二人の男が取り囲んでいた。
「この百姓家は夜回り役を庭先に回らせていやがったか」
と円朝は思った。伸兵衛は自分を取り囲む男たちにおびえていた。立ちすくみ、震えている。伸兵衛は立ちすくみながらも、円朝に告げた。
「だ、だって師匠が暗がりで苦労だろうと思って、守蔵の兄ぃが小便に行っている間に、提灯に明かりを入れて師匠の処へ持って行こうとしたら、こいつらが」
「ありがとよ、伸兵衛さん。だがこいつらにとっちゃぁ俺たちは、ありがたくねぇ夜の客だったようだ」
すっと円朝は駆け寄って、伸兵衛の前に立ちはだかった。
「伸兵衛さん、俺の背中から離れちゃいけねぇぜ」
円朝が言い終わるなり、一人が抜刀して斬りかかって来た。
円朝は左に体をかわした。二の太刀、三の太刀が円朝を襲った。くるり、ひらりと円朝は体をかわす。そのときだ。
「師匠っ、使っておくんなせぃ」
暗闇のなかから飛来したのは、守蔵の梶棒だった。
守蔵は闇にひそんで、円朝たちの様子を見つけ、円朝に梶棒を放り投げたのだ。
堅い樫木の梶棒を円朝はがっしと右手につかんだ。
ぶんっ。四の太刀が頭上から襲ってくる。すいっと右に体をかわして、瞬間。
びしっ。円朝の梶棒が男の小手を撃った。
「うぐわっ」