第一話 「三日女房」(19)

「ロイマとは」
「蘭法では、希臘(ギリシア)で所見され、希臘語で“流れ”を表すロイマの病名が付けられましてな。英吉利(イギリス)語では、リウマチと呼ばれる病ですな」
「ほぅ、リウマチ」
「さよう、漢方では痺証(ひしょう)に相当する。痺とは、気の流れや血脈の流れが塞がれる症でしてな。ロイマは困ったことに放置しておくと、指や手ばかりではなく、ひざや足の骨まで崩してしまう。症が進むと、立ち上がることすらできなくなる」
「そうならねぇように、弘庵先生を紹介したんですぜ」
「分かっております。羌活勝湿湯(きょうかつしょうしつとう)、羌活除湿湯(きょうかつじょしつとう)、身痛逐淤湯(しんつうちくおとう)、越婢加朮湯(えっぴかじゅつとう)などがロイマに使われるが、正太郎家主どのには独活寄生湯(どっかつきせいとう)を処方いたした。わしの診立てが確かなら、症は治まってくれると思うが、しばらくは通っていただき、様子をみたいところですな、師匠」
「なるほど、冬の寒さがこたえただけじゃぁなかったってわけだ。さすがは弘庵先生だ。よくお見抜きなすったもんだ」
「いや、じつはロイマによく似た病を治療したばかりでしてな。まぁ、それがどうにも不思議なできごとだったのですが、円朝師匠にお話したものかどうか」
「どんなことが、おありなすったんですかぃ」
「先の月のことでしたが、夜更けに今宵の円朝師匠のように、駕篭をわしの処に止めた者がありましてな。“夜更けだが急ぎ診てもらいたい”と言って、無理やりわしは駕篭に押し込まれましてな」
「ほぅ、弘庵先生の評判を知っていたわけだ」
「下谷を過ぎ、三ノ輪を過ぎ、ずいぶんと遠くまで連れて行くものだと思っていましたら、千住の真っ暗闇の田畑の奥に明かりを点けている百姓家がぽつりと一軒ございましてな」
「ふむ、それで」
「その百姓家に伏せっていたのは幼い娘でしてな。手足の節々が痛み、熱もあるという。看病についているのは老婆で、他にこれが不思議なのだが、人相のよくない男たちが四、五人。娘の寝ている布団から離れた座敷で博打に興じている。酒を飲んでいる。“おかしな百姓家に来てしまったものだ”と思いつつ、それでも療治をせねばならん。娘に歳を尋ねたが、荒い息ばかりで返答をしない。見たところ、五つ六つほどに見えるが、いや身体を触って驚いた。おそらく十歳くらいにはなっている娘だろう。成長が止まっているものと見えましてな。名を尋ねたが、答えない。もう一度、名を尋ねたところ、離れた座敷で博打を打っていた男が、わしの処へやって来て“爺さんは、黙って療治をしやがれ。余計なことを詮索するんじゃねぇ”と凄みをきかせた顔で、わしをにらむ」
「ほぅ、百姓家に無頼の男どもとはたしかに奇妙だ」
「ロイマに似た症だったが、わしの診立てでは猩紅熱でしたな。子どもが患う病で、手足の痛みや熱の他に、紅色の小さな発疹が全身に現れ、舌が赤く腫れる。子どもが近くにおれば、うつしてしまう危うさがあるが、その百姓家には、大人ばかりで子どもはいない様子。それならばと薬箱から取り出した薬種でその娘への薬を調合したのです」
「それでその娘はどうなったんです」
「うむ、深夜に見舞った翌日の昼に容態が急変して、手や足が痛い様子で泣いていると急ぎ駕篭がわしの処に迎えに参りまして“猩紅熱と診立てたが、さてはロイマだったかもしれん”と、わしも駕篭に乗ってまた千住の百姓家に向かった。すると昨夜は老婆が看病していたのに、その昼は母親らしき女が看病している。“そこもとが母親か”と尋ねたが返事をしない。熱にうなされた娘をじっと見つめるばかり。思わず女は“お千佳、しっかりおしよ”と口にした。とたんに奥座敷にいた男が、ずかずかっと枕元に来ると“余計なことをしゃべるんじゃねぇ”と女を蹴り飛ばしたものです。ただならぬ雰囲気のなかを、わしはまた薬を調合した。大人の薬と子どもの薬では匙加減が異なる。むろん、ロイマと猩紅熱では、調合する薬種の種類も異なりますでな」
「ちょっと待っておくんなさい、弘庵先生。娘の名前は、お千佳で間違ぇねぇですかい」
「うむ、そう耳にしました」
「その母親らしき女は、小さな丸顔で、目が大きく、鼻と口は小さく、あごの左下に小さい黒子がありゃぁしませんでしたか」
ぐっと弘庵が背をそらして驚いた顔を見せた。
「何ゆえ、そこまでご存知なのじゃな。さよう、そうした顔立ちでした」
にやりとした円朝だった。静かに弘庵に言った。
「弘庵先生、その千住の百姓家の案内図を書いちゃぁくれませんか」
硯と墨を弘庵は運んできた。千住の地図に百姓家の場所が示された。
別の紙には、百姓家の家内見取り図が描かれた。
円朝は弘庵邸を出た。
守蔵と伸兵衛はすでに駕篭のそばに立って待っていた。伸兵衛がたれを開けた。
「守蔵さん、伸兵衛さん。すまねぇが、これから千住までひとっ走りしてくれねぇか」
「千住ですかい、師匠。そいつぁ構わねぇが、夜更けのこって、湯島には帰れなくなるかもしれませんぜ」
「構わねぇ。今夜のうちに千住で確かめてぇことができたんだ」
「分かりやした。おうっ、伸兵衛っ。千住までとなりゃ長丁場だぁ。しっかりと足に仕事をさせやがれよ。いくぜっ」
円朝を乗せた駕籠は浅草田原町から千住を目指して真夜中の日光街道を走っていった。
千住の宿場町にさしかかった。夜道が宿場町の明かりに照らされている。
千住は、江戸郊外の農地のなかにぽつりと広がる繁華な宿場町なのだ。
奥州や常陸国などからの物資の輸送拠点としても栄えている。
繁華な宿場には飯盛り女の名目で遊女がいる。
この遊女を目当てに江戸市内のたくさんの男衆が、千住を訪れるのだった。
千住宿の旅籠は五十五軒。宿内の家数は二千三百七十軒。家屋は二万四千軒、住人は一万人を越える。そして何より、町奉行の支配下にはない。
江戸市内とは認められていない土地なのだ。
「師匠、千住の宿ですぜ。このあたりにご用がおありになるんですかい」
駕篭の先棒をかつぐ守蔵が円朝に尋ねた。
「済まねぇが、宿場町を越えてくれ」
「へぃ、ようござんすが、宿場を越えれば真っ暗闇の田舎道ですぜ」
「その真っ暗闇んなかの百姓家に用事ができそうなんだ。宿外れの道に出ると、左に田んぼを突っ切るように延びる細い一本道がある。さらに二丁ばかり行くと、右へ折れる道がある。鎮守の社の森んなかを走ることになる。その森を出たら、すまねぇが駕篭提灯を消してくれ。俺ぁ、そこで降りて、一軒の百姓家を訪ねてぇんだ」
「がってんだぁ、おう、伸兵衛。聞いていたかぃ。まだまだ足に仕事をさせねぇとならねぇぜ」
守蔵は円朝のもくろみは何も知らない。知らないながらも、円朝を助勢できることがうれしくてたまらないというふうに、駕篭をかつぎ、千住の宿場町を抜けて走った。
弘庵の描いてくれた地図の通りに、こんもりとした鎮守の社の森を越えた。
なるほど、くねくねとした道の先に、明かりを灯した一軒の百姓家が見えた。