第一話 「三日女房」(18)

「ふーん」
「お咲と名乗ったその仲居は、身元もしっかりしていた。千住の百姓家の女だという口入れ屋の紹介だった。まかないも巧い、茶を一服淹れるのも巧い。器量も良いということで、柏屋では喜んでいた。そのお咲が夜盗の逃走とともに消えた。ということはだ、円朝」
「うむ、盗賊が侵入しやすいように、裏木戸の鍵を内側から開けておく役目を果たす、つまりゃぁ、引き込みだったってわけだな」
「そうだ。富山町の呉服商、大和屋の事件で俺が語ったことを覚えているか」
「ああ、千二百両が盗まれ、奉公人が三人斬られたってな。その死骸の額に五寸釘で“文蔵参上”と打ち込んでいきやがったこともな。それより何より、女中が一人さらわれたくだりだ」
「うむ、我ら奉行所では、大和屋からの聞き込みで、てっきりさらわれたものと思いこんでいた。だがそうではない。大和屋の女中は、やはり引き込み役だったのだ」
「おそらく、そうだろうな」
「大和屋にも聞き込みを入れて、女中の人相書きを作っているところだ。むろん、柏屋から失踪した仲居の人相書きも作らせている。それなんだがな、円朝」
「うむ。ひっかかるところがあるってわけだな」
圭之介は、まゆをしかめて小声になった。
「人相書きはまだ描きあがっていないが、聞き込みの片(ほとり)によるとな……。小さき丸顔にして、眼は大きく、鼻口小さきにて、あごの左下に小さき黒子あり。とのことなのだ」
円朝が身を乗り出した。
「もしかすると、もしかするのか」
「うむ円朝、もしかすると、そのもしかかもしれんのだ」
「大工、久米吉の三日女房。お千恵が引き込み役をつとめているかもしれねぇわけか」
あごに手を添える円朝であった。
その日の昼から円朝は忙しかった。寄席の掛け持ちである。
上野近く下谷長者町の分限亭からはじまり、神田山本町の花房亭、神田川を渡り、神田須田町の美津亭、神田鍛冶町の松田亭の高座のあとは、辻駕篭をつかまえて、この日、五軒目の寄席、本所松倉町の満川亭へ向かった。円朝にとってはお馴染みの寄席である。客間も広い。ここでは、長く落語を語る、長講の高座となるのが常である。
暮れ六ツから高座にあがった。高座を終えた頃には、戌の刻、宵五ツ半を過ぎていた。
楽屋を出る。そこに立っていたのは、
「お迎え駕篭でござんすよ。円朝師匠」
守蔵だった。伸兵衛とともに円朝を待っていた。
深夜に満川亭の高座をつとめたあとは、守蔵と伸兵衛の駕篭が、頼まれもしなくとも満川亭に円朝を迎えに来ているのも、通例になっていた。
満川亭の席亭、宗兵衛が駕篭に乗った円朝に言った。
「円朝師匠、また頼みますよ」
駕篭は本所松倉町から走り出した。
大川にかかる吾妻橋を渡り、浅草広小路を通る頃に、駕篭のなかから円朝が、
「守蔵さん、済まねぇが、田原町でいったん降ろしちゃくれねぇか。夜更けのことで、また駕篭をつかまえるとなりゃ、やっかいだ。済まねぇが半刻ほど、田原町で待っていちゃくれめぇか」
亥の刻、夜四ツ近く。
守蔵が歩をゆるめていく。浅草田原町の路地に入っていく。
「へへへ、円朝師匠が田原町でお訪ねんなるっていやぁ、弘庵先生の処でござんしょう」
円朝の腹のなかを知っているのがさも自慢かのように、守蔵は医師、弘庵宅にぴたりと着けた。
「半時ほどだ。酒はいけねぇが、どこかの屋台でもつかまえて、そばでも食って、つないでおいておくんねぇ」
円朝は、守蔵に二朱金を一枚、握らせた。
「こんなには、いらねぇやぁ。円朝師匠、おつりはあとでお返ししますぜ」
守蔵は言うと、駕篭を弘庵宅前に置いて、伸兵衛を連れて夜の町に走って行った。
円朝は、弘庵宅の玄関をくぐった。
「夜更けに済まねぇこってすが先生、気がかりなことがありましてね」
弘庵は行燈の明かりで、蘭法医学書を読みふけっていた。
その生活ぶりを知っている円朝だからこそ、夜更けにはばからず弘庵を訪ねたのだった。
「これはこれは円朝師匠、お会いするのは久方ぶりですな」
初老の医師で、白い髪と髭。治療着を着たままである。
弘庵はオランダ語で書かれた医学書を閉じ、円朝のためにろうそくを灯した。
行燈の明かりは、油に灯心を浸しほの明かりを得る。菜種油を皿に盛り、木綿の灯心に火を灯すのである。さらに庶民は安価な鰯油などを使っている。燃やすと異臭と煙を放つ。
化け猫が、行燈の油をなめるなどの伝承は、鰯油に猫が惹かれることから生まれた。
それに比して、ろうそくは明るい。ただし高価なぜいたく品である。
弘庵は、もてなしの心を現すために、円朝にろうそくを灯したのであった。
「気がかりというのは、円朝師匠が紹介状を託した、神田竪大工町の瀧本正太郎家主のことですかな」
「さすがお察しが早い。で、正太郎さんの手の痛みは、どんな加減です」
「うむ、ロイマですな」