第一話 「三日女房」(14)

と駕篭のなかから円朝の手が伸びた。前座に駄賃を差し出すと、
「はやく上手ぇ噺家になんなよ」
小遣いを前座に握らせて、
「深川仙台堀、今川町の三善亭にやっておくんな」
円朝の掛け声を待っていたように、辻駕篭は走り出した。
江戸には町内に一軒は寄席がある。
昼八ツ半、未の刻に深川の三善亭を務めた円朝は、夕七ツ、申の刻にはまた神田に戻った。立花亭という寄席を務めて、暮六ツ、酉の刻には本所の満川亭を務めた。
この日、五席目の高座は、宵五ツ半、戌の刻に京橋の中之橋近く、南紺屋町の矢代亭にあがった。千代田の城、後に呼んで江戸城が近い繁華な町であった。
真打ちは高座にあがるおおぜいの芸人の最後を務める。
「今宵はこれまでっ」
円朝は自分の噺を終えると、夜席の明かりの蝋燭の芯を打った。
すーっと寄席が暗くなる。
真打ちとは、もともとこのように蝋燭の芯を打つ役目から名付けられた。
楽屋の裏口を出る。
夜のことで、辻駕篭もそうは走ってはいない。
京橋のはずれから湯島の自宅まで、さてどうやって帰るか。
「師匠っ、いまお帰りで」
聞き覚えのある威勢の良い声が聞こえた。
守蔵である。駕篭の先棒かつぎである。樫木の梶棒に寄りかかっていた。
「いえね、伸兵衛の野郎と、池之端の料亭から京橋の弓町までお客を乗せてきたんでさぁ。今夜は矢代亭の大トリが円朝師匠だって噂に伺っていたんで、ここまで駕篭をかついで、お待ちしていたんでさぁ。帰り駕篭でござんすよ。駕籠賃なんざぁいらねぇや。師匠、乗っていってやっておくんなせぇ」
早口に守蔵が言った。後ろをかつぐ、伸兵衛は梶棒にしがみついてしゃがんでいたが、守蔵が目で合図をすると、すくっと立ち上がって、駕篭のたれをあげた。
「さぁ、師匠。守蔵の兄ぃが気を効かせたんでさぁ。湯島までお送りいたしますよ。乗っていっておくんなさい」
伸兵衛は駕篭のたれをあげながらていねいにおじぎをみせた。
「えっほぅ、えっほぅ、えっほぅ、えっほぅ」
DSCF3973守蔵が先棒を伸兵衛が後棒をかつぐ駕篭は、京橋を抜けて南伝馬町に向かっていた。江戸の町は暗い。守蔵は円筒型の駕篭提灯を梶棒を握る右手に構えた。
「おぅ、伸兵衛。円朝師匠はお疲れでぃ。あんまり駕篭を揺するんじゃねぇぞ」
中橋広小路を駆け抜けていく。二人の勤める駕篭宿の唐独楽屋は、湯島に店を構えている。円朝は二人とはもちろんのこと、唐独楽屋の女将、お多岐とも馴染みであった。
日本橋にさしかかる。橋の上は町明かりも届かない。真っ暗闇であった。
橋を渡り終える。室町一丁目に走り入った。
「町明かりがわずかでもあると、ほっとするねぇ。兄ぃ」
伸兵衛の声がする。
円朝は駕篭のなかで、なるほどと頬笑んだ。日本橋の十軒店の通りを駆け抜けていく。
円朝は、ふと十年前に久米吉がお千恵のために買い求めたという珊瑚のかんざしを思い浮かべた。久米吉は、仕事帰りに、この十軒店の往来で、そのかんざしを買ったという。
むろん、いまは夜のことで、掛け小屋の商人は店を出してはいない。
真っ暗闇の往来に、かんざしを売っていたという夕刻の掛け小屋の様子を思い浮かべ、久米吉の情に思いを馳せてみる。
「三日女房かぁ……」
ひとつの噺にまとめられるかもしれぬと円朝は思った。
噺として高座にかければ、江戸っ子の世間口にのぼって、存外、お千恵が見つかるかもしれない。自分が久米吉にしてやれることは、それくらいのことだと円朝は思った。
「えっほぅ、えっほぅ、えっほぅ、えっほぅ」
守蔵と伸兵衛のかつぐ駕篭は、竜閑川の今川橋を渡った。
神田鍛冶町一丁目に走り込む。久米吉の住む神田竪大工町はもう近い。
もっとも久米吉は裏長屋に住んでいるから、円朝を乗せた駕籠から、長屋を眺めることはない。表店の商家がずらりと軒を連ねる。店は閉まり、往来は暗い。
どの店も戸締まりを厳重にしていることだろう。
守蔵が梶棒とともに握る駕篭提灯だけが道を照らしている。
神田鍋町に走り込む。あたりには鍋、釜の鋳物から巨大な鋳仏像を作る職人までが多く住まいしている表通りである。
「んっ」
円朝は駕篭のなかから殺気を感じた。
「守蔵さん、かごをそろりとやっておくんねぇ」
早駆けから歩走りに、守蔵は駕篭の速さをゆるめた。
「どうなさったんです、円朝師匠」