第一話 「三日女房」(13)

「朝、起きたときには両手がこわばりまして、動かすことができません。筆を持つなどはまったく叶いませんでな。何ぁに、冬の寒さがこたえたんでございましょう」
「医者にはお診せなすったんですかぃ」
円朝が正太郎に尋ねた。
「いえ、何、箱根か熱海へでも出かけて湯治をするつもりでございますよ」
「そんなら、お医者を顔繋ぎいたしましょう。浅草田原町の弘庵という先生は、俺の馴染みだ。筆と墨と紙を拝借つかまつりましょう」
お春が立って、硯と筆を運んできた。
さらさらと医師弘庵への紹介状を書くと、正太郎の前に差し出した。
「きっと良い療治をしてくんなさる。今日にでもお訪ねになってはいかがです」
読みやすい文字の紹介状に目を見張る正太郎だった。
「それから、もう一筆だ」
円朝は、さらさらとまた何かを書いた。
「たずね人、おちえ。まるかおに大きなめ、はな、くち小さきにて、あごのしたひだりに小さきほくろひとつあり。かんだたてだいくちょう、だいく、くめきち。おしらせねがう。代書、三遊亭円朝」
おぉっ、と正太郎はすべてを察したようだ。
「大家さんの代わりに俺が書いたこの尋ね人の貼り紙を久米吉さんに渡しておくんねぇ」
言って、お春に差し出す円朝であった。
お春はおそるおそる受けとった。お春も文字の読み書きにはうとい様子であった。
「大家さん、かな文字だね。これなら、あたしもつっかえ、つっかえですが、読めますよ。それに代書、三遊亭円朝って書いてあるんでございましょう。こりゃ評判になりますよ」
お春は、うれしそうに正太郎の顔を見た。
「さぁて俺ぁ、橋本亭の昼席へ行かなくちゃならねぇ。おいとまをいたしますよ。大家さん、お春さん、ありがとうございました」
瀧本正太郎の家を出た。春のからっ風が円朝の背中を押した。
昼九ツ、午の刻。日本橋馬喰町の寄席、橋本亭は昼席に円朝が出るというので、客でぎっしりと埋まっていた。
円朝が高座へあがる。客はかたずをのんで、円朝を見つめた。
ていねいにおじぎをした円朝は、すぅーっと頭をあげた。小声で語り出す。
「梅がほころびまして、桜の便りももうそろそろ届くことでございましょう」
ゆるりと黒い羽織を脱ぐ、江戸紫の着物に苔青色の帯、襟に朱色の襦袢がのぞく。
高座に脱ぎ捨てた羽織は、さり気なく、前座の噺家が楽屋に引っ込めた。
「本日は待ち遠しい桜のお話でごきげんを伺います」
円朝が語り始めたのは『頭山』の一席であった。
「まったく気短な男もあったもので、さくらんぼうを種ごと飲み込むように食べてしまいました。すると、にょきにょきっと頭から伸びてきたものがある」
円朝は自分の頭に手を伸ばす仕草をした。
「何でぇ、こりぁ。芽がふいてやがらぁ……。言っている間に、男の頭には大きな一本の樹が伸びて、桜が咲きました」
観客の目には円朝の頭の上に桜の大樹が見えるようであった。
「人々は大喜びで男の頭に登ると、花見で大騒ぎをいたします。そのにぎやかなことと言ったら、ございません」
桜の花見に大騒ぎするおおぜいの人々を一人ずつ円朝は演じる。
「もともと気短な気性でございますから、桜の樹を引き抜いてしまいました。すると頭には大きな穴が残りまして」
この穴に雨水がたまって大きな池になり、近所の人たちが魚釣りを始める。
釣り針を鼻の穴やまぶたに引っかけられて、おちおち眠っていることもできない。
「頭にきた男は」
円朝が腰を浮かして、怒り心頭に発した男になりきっていた。
「ざぶぅーん」
身投げの所作をみせた。
「おぉっ」
と観客は、どよめいた。
「男は自分の頭の上の池に身を投げて死んでしまいました……」
円朝のサゲのひと言に、寄席の客はあっけにとられた。
円朝は真顔に戻りて、いねいにおじぎをすると、高座から立ち上がり楽屋へと去って行く。どよめいていた寄席の客は、円朝が高座から消えるとやがて笑いに身をよじった。
楽屋で円朝は前座が着せかけてくれる自分の羽織に袖を通すと、
「次は深川仙台堀の今川町か」
前座が察して、辻駕篭を楽屋裏に呼んだ。
円朝が駕篭に乗る。