第一話 「三日女房」(12)

瀧本正太郎大家が書いてくれた“尋ね人お千恵”の貼り紙を大事に懐に抱えていた。
九月十五日、お千恵が突然に久米吉の女房に押しかけてきた日から一年が過ぎた。
その日も、仕事を終えて長屋に戻り、大家から真新しい貼り紙を受けとると、一石橋に向かった。貼り紙を掲げての帰り道、見上げると満月が自分を、江戸の町を照らしている。
「お千恵」
手にしたぶら提灯を灯すこともなく、月明かりに照らされながら神田の長屋まで戻った。
一年前、お千恵は、当たり前のように久米吉の女房になりにやって来た。
今夜あたり、またお千恵は、
「ただいま、いま帰ったよ、お前ぃさん」
当たり前のように戻ってくるのではないか。夜空には秋の満月が輝いている。
まんじりとして、寝つかれない久米吉だった。とろとろと布団にまどろむ。
「お千恵」
髪の香りがする。人肌のぬくもりがする。細くきゃしゃな肉体を両腕に抱きしめる。
「お千恵やい」
自分の独り言に、ふと目を醒ます。掛け布団を丸めて、抱いていた久米吉だった。
夢にお千恵を抱いていたのだ。
「何をやっているんだ、俺ぁ……」
はね起きて布団の上に座り込む。知らずのうちに涙がにじんでくる。
満月は消えて、夜明けの茜空が窓から見える。がっくりとうなだれ、布団に大の字に寝そべった。朝方にとろとろっと眠ってしまった。お千恵が言った。
「お千佳がはいはいをするようになったよ。笑うときの顔が可愛いったら、ありゃしないさね。滅多に笑わないお前ぃさんが笑ったときの顔にそっくりなんだもの。ねぇ、あやしてやっておくれよ」
久米吉は大きく成長しているお千佳の顔を覗きこんだ。お千佳はなるほど笑っていた。はいはいをしてみせた。うれしさに顔をあげると、お千恵と久米吉の目が合った。
お千恵もそれはうれしそうに笑った。
はっとして布団をはねのけた。夜が明けた自分の部屋に、また御所白粉の香りがした。
次の日、仕事を終えた久米吉は、日本橋十軒店の夜店で、でんでん太鼓を買い求めた。
長屋の狭い久米吉の部屋のなかから、でんでん太鼓がとんとんと鳴る音が聞こえた。
久米吉は、そこにいもしない我が娘、お千佳をあやしていたのである。
「この広い江戸の空の下、お千恵もいまごろぁ、どっかでこうして赤児のお千佳をあやしているに違ぇねぇ」
そんな気がする。いやきっとそうだ。信じて、畳の上に目には見えない幻のお千佳をあやし続ける久米吉だった。その頃からである。
「お千恵っ、行って来るよっ」
そう自分の部屋のなかに向かってあいさつをして、大工箱を肩に担ぎ、久米吉は長屋を出て行くようになった。
もちろん、久米吉の部屋のなかには誰もいない。
長屋の連中は、久米吉を気味悪がった。隣家のお春などは、正太郎大家に向かって、
「久米さんは、これさぁね」
指を頭のそばでくるくると回してみせた。
三年が過ぎた。久米吉は大工として一人前の仕事をこなせるようになっていた。
ただ、奇妙な癖は続いた。
「お千恵っ、いま帰ぇったよ」
誰もいない自分の部屋にあいさつをして入っていく。でんでん太鼓は、やがて藁馬に代わり、三年目の三月には、十軒店のひな市で買ってきたひな人形に代わり、五年が過ぎた頃には赤い鼻緒の小さな草履と、黄八丈の小さな着物まで揃える始末。七年が過ぎたときには、七五三の七つの祝いだと、近所に赤飯おこわまで配った。
「お千佳が七つになりやしたんで」
と正太郎大家までが、その赤飯をもらったという。
久米吉は普請頭になり、九年目にはついに棟梁手助けの身分になっていた。
棟梁を手助けして、普請の相談役を務めるまでに腕を上げたのだ。
どこかでうぐいすが鳴いた。
円朝はお春が差し出してくれたようかんには手をつけていなかった。
「それから十年でございます」
正太郎大家が、また両手で湯飲み茶碗を重そうに持ち上げて茶をすすった。
「たった三日を暮らしたお千恵という女房を、あの久米吉は十年を過ぎたいまも待ち続けているんでございますよ」
「なるほど」
円朝は、ひと言うなずいただけだった。
「今月は、久米吉に済まないことをしました。何しろ、両手の節々が痛みましてな」
それで尋ね人の貼り紙を書いて持たせることができなかったと正太郎は言った。