第一話 「三日女房」(11)

「間違ぇねぇ、あれはお千恵だった……」
会えない寂しさよりも、お千恵が生きていたことに喜びを感じた。
「明日から浅草あたりを捜して歩くか……」
そう考えるうちに、とろとろりとまどろみ眠りに就いてしまった。
七月十二日も十三日も、久米吉は浅草界隈を歩き回った。
暮れ六ツ後のことで陽はどんどん落ちて町は暗くなっていく。
久米吉はかねてから用意したぶら提灯の蝋燭に明かりを灯して町々を歩いた。
「このあたりに丸顔で、目がでかくて、あごの左下に小さな黒子がぽつんとございやす。そんな女をご存じないでございやしょうか」
道行く人とすれ違うたびに尋ねた。
「もしかしたら、いまでも赤い珊瑚のかんざしを挿しているかもしれやせん」
立ち止まって親切に話を聞き、しかし知らないと人々は首を横に振った。
あるいは、突然に声をかける久米吉をあやしんで、立ち止まらずに通り過ぎる人もいた。
七月も終わろうという二十五日の真夜中だった。久米吉は揺り起こされた。
「お前ぃさん、久米吉っつぁん。ほら、赤児が生まれたよ。お前ぃさんと、あたしの子だよ。可愛いだろう」
枕元に、生まれたばかりの赤ん坊を抱きながら、お千恵が言った。
「お前ぇ、いつの間に帰って来たんだ」
驚いてはね起きる久米吉だった。
「女の子だよ。お前ぇさんと約束した通りにお千佳ってぇ名前にしたんだ。さぁ、抱いてやっておくれよ」
産着にくるまれた赤ん坊を差し出す、お千恵だった。
久しぶりに握るお千恵の手は、小さくて温かかった。
「へぇ、俺とお前ぇの子かい。お千佳かい」
受けとってあやそうとした途端に、久米吉の目には真っ暗な自分の部屋が見えた。
枕を両手に抱いていた、目が醒めたのだ。
しかしお千恵の手のぬくもりが残っていた。お千佳を抱いた柔らかさが残っていた。
気がついた。部屋のなかに御所白粉の香りがする。
「お千恵っ」
真夜中に久米吉は思わず声をあげた。いても立ってもいられなかった。
長屋の自分の部屋の木戸を開いて飛び出すと、大家の瀧本正太郎の家に走って行った。
どん、どん、どん、どん、どんっ……。
大家の家の玄関を叩いた。
「何だっ、誰だ。こんな夜更けに玄関を叩くやつぁ。まったく眠っていたのに起きちまったじゃねぇか。ん、何だ、久米吉じゃぁねぇか。どうした。何が起きた」
「何が起きたじゃねぇや、大家さん。お千恵のやつぁ、お千恵、お千恵のやつぁ……い、い、生きていますぜ」
「何ぃ、お千恵だぁ。ああ、お前のいなくなった女房か。ありゃあおおかた、お前をからかいに女ぎつねが三日ばかり女に化けていたってぇ話で落ち着いたはずだ。どうした、何があった」
正太郎大家は、眠い目をこすりながら、久米吉の話を聞いた。
「お前、そんなにそのお千恵さんが忘れられないのかい」
久米吉は大家の問いかけに黙って首を縦に振った。
「そろそろ、お前には新しい女房でも探して、口利きしてやろうと思っていたのに」
正太郎大家は、腕組みをして黙り込んでしまった。
「そうか、そんなに恋しいか。しかしたった三日だぞ。その三日しかいなかった女房にどうして、お前はそんなに未練を残すんだい」
「どうしてって、そりぁ」
久米吉はうつむいた。
「そりゃ、命がけで惚れちまったからよ」
言い放った久米吉であった。
「そうか……。うんうん、分かった。なぁ久米吉、お前、日本橋の一石橋にある“満よひ子の志るべ”の石標を知っているか」
「知ってまさぁ、俺ぁ、火事で焼け出されて親とはぐれたばかりのがきの時分に、俺を拾ってくれたお助け小屋の番人が、俺の親を捜すってんで、その一石橋に貼り紙をしてくれたことがあるんでさぁ。もっとも頼みの親はついに見つからなかったけれどね」
「そうか、そんなら話は早い。あたしがお千恵さんを捜す貼り紙の文句を書いてやる。お前は文字を書けねぇからな。あたしが書いた貼り紙を一石橋に貼り出したらどうだ。何もしないよりかは、はるかに頼みがいがあるってもんだ」
こうして七月から、お千恵を捜す神田竪大工町の見習い大工、久米吉の貼り紙は一石橋に掲げられたのである。久米吉は普請場の仕事に精を出すようになった。
「どっかでお千恵が俺の仕事を見ているかもしれねぇ」
そんな気持ちが張り合いになった。
八月十五日にも、一石橋に向かった。