第一話 「三日女房」(6)

どっと驚きの声があがった。達五郎は、
「どこの女だ」
と目を丸くして詰め寄ったが、久米吉は、そう言われればお千恵がどこからやって来た女なのか知らない。
「祝言はあげたのか。まだなら、俺が大家の正太郎さんに話ぃつけて、仲人の盃をとってやる。だから、お前ぇ早く一人前になれよ」
上機嫌にその場を立ち去る達五郎の棟梁だった。その背中が大きく見えた。
申の刻、夕七ツ半。その日の普請を終えて、神田竪大工町正太郎店の長屋に帰った。
「お帰り、お前ぃさん。待ち焦がれて、あたしは首が長くなっちまったよ」
「まさかお前ぇ、ろくろっ首じゃぁあるめぇし」
笑う久米吉に、お千恵は、
「ほら、ねっ、ほら」
と自分の首を伸ばしては、久米吉に見せようとする。小さい丸顔、大きな瞳、紅をさした小さな口、整った鼻。なるほど首まで細いから、伸ばせば長く見える。お千恵の器量が良いことにいまさら気がついた久米吉だった。戌の刻、宵五ツには夕餉を済ませた。
秋刀魚の塩焼きは朝飯と同じに焼きたてが膳部に乗った。味噌に黒砂糖を練り込み秋茄子のうえに乗せ、こんがりと焼いた御菜が添えられた。白飯が美味かった。
夕餉をしまうと、お千恵は焼き栗を膳のうえに転がした。二人で並んで、まだ温かいふくもりの残る焼き栗をむいた。栗をほおばると甘い秋の味が広がった。
亥の刻、夜四ツ半。お千恵がせがんだ。
「ねぇ、酒ぇ買うのを忘れちまったよ。今夜はお前ぃさんとさしで一杯やりたいのにさ」
「うん」
「だからさ、夜鷹そばの屋台にでも行かないかぃ」
「ああ、いま時分なら、柳原の土手、細川玄蕃守様のお屋敷にほど近ぇ横大工町のあたりに夜鳴きそばの屋台が廻って来る頃だろう」
こうして二人は、夜闇の江戸を提灯をぶら下げて神田川沿い柳原土手の横大工町へ向かって歩いていった。
“そば、煮売りもの、酒あり、まるや”の行燈が遠目からも見えた。
久米吉が独り者の時分に、ちょくちょく顔を出した夜鷹そばの屋台である。
まるやのおやじは愛想よく久米吉を迎えた。隣に立つお千恵を見て驚いた様子だった。 が、何も言わず、十六文のかけそばを、久米吉の前に、お千恵の前に置いた。
二八そば、一杯十六文。久米吉は秋の夜風を背に受けながら、熱々のそばをたぐった。
お千恵は小さな口に、箸で五、六本の細切りそばをくわえると、照れくさそうにずずっとすすった。お千恵がそばをすする音に、久米吉がお千恵を横に見た。
久米吉とお千恵の目が合った。
お千恵は途端に七味唐辛子を、久米吉のかけそばの丼にたっぷりと放り込んで、くすくすと笑った。
「いたずらをするんじゃねぇ」
と叱りながら、久米吉は男っぷりを見せるとばかりに唐辛子で赤く染まったそばのつゆを飲み干してみせた。
「どうでぃ」
久米吉の顔はまっ赤に染まった。辛い辛い唐辛子を飲み干したからだ。
「ふふ」
とお千恵は笑っただけだった。
熱燗を飲む。徳利をまた頼み、また盃を酌み交わす。
「これが、あたしらの祝言だね」
というお千恵に、
「いや、祝言は、達五郎の棟梁が正太郎大家さんに頼んで」
言いかける久米吉に、
「あたしは、これで満足。豪儀なことはいらないよ」
ほろ酔いで答えるお千恵だった。酔いがまわった。
帰り道にお千恵が千鳥足によろけると、つまずいて久米吉に寄りかかった。
「おぅ、乗れよ」
久米吉は往来にしゃがみ込む。背中でお千恵を待った。
提灯は一つを消し、一灯を背中におぶさったお千恵がぶらぶらと握って、久米吉の足もとを照らした。久米吉は、しばらくは黙ってお千恵を背中に歩いていたが、
「なぁ、お千恵。お前ぇどこで俺を見知ったんだい」
思い切って尋ねた。
「神田紺屋町の普請場さぁ、ほら今川橋の近くの、あすこに結納縁起物の万屋さんが、真新しいお店を新普請なすっておいでだろ。お前さん、誰より先に木っ端を拾い集めて片付けちゃあさぁ、脇目で棟梁たちの手仕事を眺めて、唇をかんでいただろう。ひまができりゃぁ、大工道具の丹精もしてさ。“あぁ、この人は立派な大工になる。一人前どころか末は棟梁にだってなれる男だ”あたしはそう見たのさ。そんときからあたしは、お前ぃさんについていくって、心に決めていたんだよ」
それは三ヶ月ばかり前に完成した紺屋町の立派な大店だった。夏の暑い盛りに達五郎が指揮する大工仕事に久米吉が汗を流していた頃だ。
「ふぅん、お千恵が見ていたなんて、俺ぁ、ちっとも気がつかなかったぜ」
言って納得した久米吉だった。秋の夜空に十六夜の月が望める。ふと足を止めた。
「昨日に続いて、いい月夜じゃぁねぇか」