第一話 「三日女房」(5)

「お察しが早い。久米吉は文字が書けません。読むことなら少しは見当がつけられるが、書くとなるといけません。たしかに久米吉がお千恵を探すあの尋ね人の貼り紙は、あたくしが書いていたものでございます」
「それで今月は、貼り紙がなかったんでございますね。しかし十年の昔からというからには、何やら子細がありそうだ。それに久米吉さんは、自分の長屋に向かって、たしかに“お千恵、行って来るよ”とあいさつをして出かけなすった」
「あぁ、ご覧になりましたか」
正太郎がため息まじりに、湯飲み茶碗を持つのも重そうに、両手でやっと口に運んだ。
「久米吉が正太郎店に、来たのは十年前。大工の達五郎棟梁の見習いで、まだこっぱ拾いで玄翁も握らせてはもらえない身分でしたか。しかしご覧になったとおり、気っ風はいい男でしてな。独り者のままじゃあ、何かと具合も良くなかろう。玄翁を握らせてもらえるようになった頃には、あたくしがどこかの町娘を迎えて久米吉に所帯を持たせようと考えていた、そんなある晩のことでございます」
お春が不格好に切った黒いようかんが、これまた不器用に菓子盆に並んで差し出された。
「十年ほども前の秋も深まった頃でございました。木戸を勝手に開けて、久米吉の長屋に入ってきたのは二十歳を越えた頃合いの女だったそうでございます。久米吉は驚いたそうで。何しろ見たこともない女があがりこんできたのでございますからな」
そこから正太郎が語る話は、なるほどきつねの女房ともいえよう摩訶にして不思議な十年のいきさつだった。女は自らお千恵と名乗ったという。
「な、何でぇ、手前ぇは」
驚く久米吉にお千恵は、すり寄って、
「何言ってんだい。お前ぃさんの女房になりに来たんじゃないかさぁ」
台所に立つと、包みに持参したねぎと油揚げをきざみ、ごぼうをささがきに削いだ。
塩魚の鰯を水にさらし、塩抜きをしてから、まな板の上ですっと三枚におろした。
薄い鉄皿鍋に黒砂糖と醤油を煮立て、鰯の切り身を入れた。鰯が煮えたとみるや、そこに刻みねぎと湯通し油揚げを放り込み、鶏卵をさっと流し、ごぼうのささがきを散らした。
久米吉は手慣れたお千恵のまかないを、ぼんやり眺めていた。
「さぁ今朝、千住の百姓家から運んできたばかりの卵だよ。鰯は下総から日本橋の河岸へ、八丁櫓の押送(おしおくり)船で揚げられたばかりの塩漬鰯さ。たんと食べて精をつけておくれよ。明日もどこかの普請場で、汗ぇ流すんだろう」
久米吉の家のものなら、どこに何がしまってあるのかも知っているかのように、へっついの脇からおひつを取り出し、朝に、久米吉が隣家のお春に炊いておいてもらった飯を、手結びに、にぎり飯にして差し出した。
久米吉は、おそるおそるにぎり飯を受けとり目の前に出された鰯の卵とじに箸をつけた。
「美味ぇ……」
お千恵は、うふふぅと笑うと、自分も小さなにぎり飯を手結びして、小さな口に頬張った。そうして、始めはゆっくりだった久米吉の箸が、やがて鰯の卵とじを忙し気につつくのをうれしそうに眺めた。
「ねぇ、飯碗と箸をあたしの分も買っておくれよ。高いもんじゃなくっていいさ。夫婦箸のおそろいの柄が欲しいよぅ。それからいちん日(ち)の飯は、明日っからあたしが炊くよ。ねっ、いいだろう」
ほっくらとした鰯が美味い、秋の夜だった。
「ねぇ、お前ぃさん。月があんなに丸いよ。きれいだねぇ」
言われて、お千恵の脇に立つ。玄関ともいえない粗末な木戸を少しだけ開けたお千恵が見上げていた月は、たしかに満月だった。
「十五夜お月様だねぇ」
久米吉の胸に寄りかかるお千恵からは、御所白粉のほのかな香りがした。
「うーさぎ、うさぎ、何見て跳ねる」
お千恵が小さな口を動かして、夜をはばかり、かすかな唄声をつぶやく。
「十五夜、お月様、見て跳ぁーねる」
唄声を重ねた久米吉であった。
「秋だもん。寒いよ、お前ぃさん……」
その夜、二人は契りを結んだ。お千恵は小さく丸まって久米吉の胸に寝息を立てた。
翌朝、久米吉は味噌汁の匂いで目をさました。朝のどじょう売りが長屋を廻って来たものか、豆腐商いも来たものか、味噌汁にはどじょうと豆腐が入っていた。
「秋刀魚はすぐに焼くからね」
戸外に出て、七輪の火で秋刀魚を焼く。煙たさに顔をしかめるお千恵の丸く小さな顔が、いとおしく思えた。塩焼きの秋刀魚と味噌汁。炊きたての朝飯を二人で食べた。
「さぁ、お前ぃさん。行っといで。今日こそは玄翁を握らせてもらうんだ。一人前の大工んなって、いい仕事をして。いい普請をして、いつかあたしにお前ぃさんが建てた家屋敷を見せておくれよ。あたしがついているんだ。しっかりお働きよ」
久米吉は、大工箱を肩に担ぐと、
「お千恵っ、行ってくるよっ」
上機嫌で、その日の普請場に出かけていった。
昼飯はいつも、棟梁の達五郎から、麦のにぎり飯とたくあんの切れっ端をもらっていた久米吉だった。今日ばかりは違う。弁当をお千恵から渡されている。
色あせた風呂敷をほどく。杉の経木折りの弁当箱が現れた。
朝に炊いた白米には、梅干しがまん中に控え、脇には小海老の佃煮と昆布締めが添えられている。里芋が甘辛く醤油で煮込まれている。練り味噌は焼かれて焦げ目がつけられていた。口に運ぶと、かりりとした味噌は香ばしい香りがする。味噌のなかには山椒がまぶしてある。ほろりと口のなかでほどける。汗を流したあとには、たまらないご馳走だった。
「お千恵のやつ、いつの間に……」
久米吉は、頬張りながら、誰にも聞こえないようにつぶやいたが、見習い仲間が久米吉の弁当に驚きの声をあげた。
「久米吉、お前ぇ、そんな豪儀な弁当をどうしやがった」
声に大工仲間が集まり、久米吉を取り囲んだ。
棟梁の達五郎までが、弁当をのぞきにやって来た。
「久米吉、弁松か百川か、それとも八百善に知り合いでもできたか」
達五郎棟梁は江戸の料亭の名を連ねて、久米吉に問い正した。
「いえ……、へ、へへぇ。あのぅ、昨日の晩に、かかぁをもらいやした」