第一話 「三日女房」(7)

満天の星空が二人に降り注いだ。とつぜんお千恵が久米吉の背中にしがみついた。
「ねぇお前ぃさん……。捨てないで、捨てないでおくれよね。だってあたしお前ぃさんに心底惚れちまったんだもの。惚れて、惚れて、惚れ抜いて、お前ぃさんのおかみさんにしてもらおうってやって来たんだもの」
ぎゅっとお千恵は久米吉に抱きつく。
「お前ぃさんに捨てられたら、あたしゃぁ生きていけないよ。だから、ねっ、ねっ……。お前ぃさん、あたしを捨てないでおくれよね」
お千恵の小さな乳房が久米吉の背中に押しつけられた。
久米吉は止めていた足をまた神田竪大工町の長屋に向かって歩き始めた。
御所白粉の香りが久米吉を包んだ。しばらく間を置いて、久米吉は涙を浮かべて答えた。
「捨てやしねぇ。捨てやしねぇよ。ああ、捨てるもんけぇ。お千恵は俺が生涯、大事にするんだ。ああ、そうさ、いつの日か棟梁んなって、お千恵に楽ぅさせてやるからな」
涙を見られたくない久米吉だった。お千恵をおぶった両腕は涙を拭く手を顔にまわせなかった。頬を涙が伝わった。秋の夜道に久米吉の小さな涙粒が落ちた。
「わん、わおぉーん」
遠くで犬の遠吠えが聞こえた。
久米吉は、お千恵をおぶったまま、いつまでも歩いていたい気持ちだった。
水菜を浮かべた味噌汁に、焼き秋刀魚の朝餉を囲みながら、お千恵が言った。
「ねぇお前ぃさん、子どもが生まれたら名前は何てつけようかね」
久米吉は驚いた。
「えっ、子ができたのか」
二人が情を交わしたのは、おとといの晩だけである。
「もしもの話だよ。まだ、そうと決まったわけじゃぁないよ。でもさ、女には分かるんだ。好きな人の子が宿ったときは、心がそぞろめくもんなのさ。今朝はそんな心持ちで目をさましてさ、それでお前ぃさんに、聞いてみただけさね」
もしも子ができたなら……、そう考えるだけで久米吉はもどこからやって来るのか分からない気力が身体の芯からほてって来るのを感じた。
「女の子だったら」
箸を止めて久米吉が考え込んでみせた。お千恵が言葉をなぞった。
「うん、女の子だったら」
「そうさな、お千佳ってぇのはどうだ。お千恵の千の一名(ひとな)をとるんだ」
「お千佳……お千佳。うん、いいねぇ」
にっこり笑ったお千恵だった。
しょせんはもしもの話である。朝餉の何気ない会話である。出かける支度をした。
「お前ぃさん、秋風は気まぐれに強く吹くからね。高いところで仕事をするときぁ、気をつけておくれよ」
「おうさ、分かっていらい。お前ぇが心配するようなどじは踏まねぇよ」
大工箱を肩に担いだ。
「お千恵っ、行って来るよっ」
今朝も上機嫌で、出かけていく久米吉だった。
なるほど、朝から秋風が突風に変わることがあった。
日本橋十軒店通り。三越こと、三井の呉服商越後屋がそびえる近くで、花かんざし小間物を商う銀花堂という商家を普請していた。
二階屋まで建てるお店普請で、屋根をふくところまで仕事は進んでいた。
屋根の木組みをこしらえる。その木組みを二階の高さまで運ぶ。
鳶が組んだ足場はしっかりしていたが、突風に吹かれると、木組みの板が風を受けて、久米吉の身体はよろめいた。
「こんなところで落っこちて、怪我でもしちゃぁ、お千恵にあわせる顔がねぇ」
用心深く、足もとを確かめながら二階屋へと木組みを運んだ。
昼の弁当時分になった。棟梁の達五郎は独り者の若い職人たちに、麦飯のにぎり飯とたくあんを配った。久米吉は昨日に続いて、お千恵の持たせてくれた弁当の包みを開いた。
白米のまん中に梅干しが赤い。お麩の甘煮、ゆりねの醤油煮、薄く削ぐように刻まれたれんこんは甘酢でしめられている。三枚ばかりを一度に箸でつまむ。口に頬張ると、しゃきしゃきと歯ごたえがした。白米が美味い。秋の新米を炊いたものだろう。
昼餉を配り終えた達五郎がやって来た。
「おぅ、久米吉。お前ぇ今日から玄翁を握ってみるか。かみさんをもらったとなりゃあ、俺もお前ぇを一人前ぇにしなくっちゃならねぇ。給金もあげてやる。しっかりかみさんを養っていける大工になりやがれよ」
玄翁とは釘を打つ、小ぶりの金槌である。大工のそれは扱いに熟練の技が必要であった。
達五郎は、玄翁の握り方の手ほどきをみせてしてくれると約束をして、普請場に戻っていった。
久米吉は、自分の身が跳びあがるのではないかと身震いした。
「一人前ぇ、一人前ぇの大工になれる」
その確証を得たのである。棟梁が自分を認めたのである。
「お千恵のおかげだぁ」
午後からは、達五郎のてほどきを受けながら、玄翁を振るう久米吉の姿があった。
秋の陽が傾いた。仕事は仕舞いである。暮れ六ツの江戸の町を、神田竪大工町の長屋に帰る久米吉だった。十軒店は日本橋の繁華街である。大店もずらりと並ぶ。小屋がけの出店も並ぶ。往来に板を渡し、急こしらえの露店も並ぶ。日本橋から北へ向かうかなめの道である。十軒店の名は江戸開幕の間もない頃に、ここに十軒の商家が立ち並んでいたことに由来する。いまでは三月の桃の節供にひな人形を売る市が立つ繁華街に発展している。