第一話 「三日女房」(4)

―やはり、お千恵さんという女は久米吉さんのところへ帰ってきたらしい。
納得した円朝だった。いたずら心がわいた。円朝はお千恵という女の顔を見てみたいと思ったのだ。久米吉が出て行ったばかりの九尺間口の小さな長屋のひと部屋を訪ねた。
「ごめんくださいましな。久米吉さんのお宅はこちらで……」
女が出てくるものと思っていた円朝だった。ところが返事はない。
「あの、お千恵さんはご在宅でございましょうか」
やはり返事はない。九尺二間の長屋は四畳半の畳部屋で、他に一畳半ほどの土間がある。
土間は台所が占めていて、へっついと呼ばれるかまどがしつらえてある。
それが九尺二間の長屋のすべてだ。
家財道具とてない。暮らしに必要なものは衣服も布団も、損料屋から借りる。
夏には夏布団や蚊帳、夏の着物などを借りて暮らす。季節が過ぎれば返してしまう。
冬には炭鉢、冬布団、かい巻きなどを借りて暮らす。狭い長屋には、家財道具をなるべく置かないように暮らすのが江戸っ子の流儀である。
「久米さんをお訪ねかい。そんならいましがた仕事に出て行ったばかりさね」
隣の家から出てきた三十過ぎであろう女が、玄関に立つ円朝に声をかけてきた。
「久米さんは独り暮らしさね。当人が出ていきゃあ、その家はからっぽさ」
円朝は不審に思って尋ねた。
「しかしお千恵さんというお方とご一緒なんじゃございませんかぇ」
「三日女房のきつねのお千恵さんのことをご存じかえ。はは、まったく馬鹿げた話さね」
「三日女房……。きつねのお千恵……。はて、何のことでござんしょう」
円朝は合点がいかない。二人が久米吉の玄関先で立ち話をしているところへ初老の男がやって来た。女があいさつをする。
「おはようござんす、大家さん。いえね、こちらのお方が久米さんところのお千恵さんを訪ねて来たらしくってさ。まったく朝っぱらからとんだ笑い話でござんしょ」
初老の男は、この長屋の大家らしい。
「ほうほう、身なりのご立派なお方だ。大工仲間とも思えませんな。久米吉をご存じで」
「いや、その、ちと、お千恵さんというお方にお目にかかりたいと思って」
大家の顔が曇った。身の上をあやしまれたかと思った円朝は名乗ることにした。
「あたしは、世情のあらを寄席で語る噺家でございます。久米吉さんが一石橋に毎月十五日に貼り付ける尋ね人の紙の話を聞きましてね」
「お名前は何とおっしゃりますかな」
「円朝、三遊亭円朝と申します」
「えっ」
大家が驚きの声をあげた。
「いま江戸中の人気を一身にさらっているという、あの円朝師匠でございますか」
円朝と話していた女もぎょっとした顔つきになった。大家はしげしげと円朝の顔を見た。
「間違いない。末広町の寄席で一度だけ師匠の怪談話を聞いたことがございます。夜席のことで、ろうそくの明かりに、そのお顔を遠目に拝見したが、うむ、円朝師匠その人だ」
夜席で、しかもわずかな明かりをそっと灯しての怪談話。
この大家は円朝の顔をおぼろげにしか見られなかっただろう。
春の朝の光のなかで、いつかの晩に見た円朝の顔をいま思い出したという様子だった。
「おい、お春さんや。円朝師匠には私の家へあがっていただくからな。お茶を煎れて持ってきておくれ。それからようかんも切ってもらう。しばらくは、あたしんちへ誰も寄こさないでくれ」
「へ、へぇ。分かりました。それにしても、え、円朝師匠がこんな長屋に……」
「おい、お春さん。こんな長屋とはごあいさつだ」
大家はお春に小言を言うと、長屋の表にある大きな家に向かって歩き出した。
円朝は、大家のあとに続いた。大家の家は庭つきの二間つづきである。障子も襖も真新しい。一間しかない小さな長屋とは暮らしぶりが違う。
猫をひざの上に乗せ、大家があいさつをした。
「神田竪大工町、正太郎店を差配いたします。瀧本正太郎と申します。お見知りおきを」
顔が長い。あごがしゃくれて前に突き出している。身体が大きいが目は横に細い。
正太郎大家は、丁寧におじぎをした。そこへお春が、茶托がないからだろう、まな板の上に湯飲み茶碗を二つ乗せて正太郎の家に入ってきた。
「おぉ、済まないな、お春さん。ついでに師匠にお出しするようかんが茶箪笥のなかに入っている。あたしの代わりに切っておくれ。お前に出すときみたいに薄く切るんじゃないよ。何しろ、円朝師匠にお出しするんだ。厚っぺらに切ってな、きちんと菓子盆に盛りつけるんだぞ。一切れじゃならないよ。三切れを丁寧に並べてな」
落語の『小言幸兵衛』のような大家だと円朝は思った。
「どうもじつは、手を痛めましてな。箸を握ることもできません。いまは身の回りの世話の一切を、長屋の連中に手伝ってもらう始末でして」
見れば正太郎は両手首に膏薬を貼っている。
「筆も持てなくなりまして、久米吉の貼り紙も書いてやることがかないませんでした」
「ほぅ、すると一石橋の、尋ね人の貼り紙は、正太郎大家さんが代書をなすっていたわけですかぃ」