第一話 「三日女房」(3)

円朝は椀の手を休めたまま、圭之介の話に聞き入った。
「ところが二月十五日を過ぎた今月は、その貼り紙はない。古い貼り紙も風雨に流されたものか、見当たらない。それが奉行所では噂にのぼってな」
「圭之介、お前ぇ、今月は見てねぇと言ったな。たしかか」
「うむ、おとつい眺めたときには無かった。奉行所では、お千恵という女が十年ぶりに見つかったのではあるまいかと噂になっている」
「ほぅ、どんな女か見てみてぇもんだな、圭之介、たしか神田竪大工町といったな」
「そうだ。俺も心掛かりにはなっておるのだが、おつとめの方が忙しくてな」
「また、夜盗かぇ」
円朝の言葉に、今度は圭之介が箸を止めた。
「なぜ、それを知っている。神田富山町の呉服屋から千二百両が盗まれた件を、どこで知ったのだ」
「富山町の呉服屋か。大和屋かぇ」
「むっ……」
圭之介はしまったという顔をした。
「円朝、さては呼び水を掛けたな。夜盗のこと、初めから知っていたわけではあるまい」
「うむ、まぁそんな顔を圭之介がしていたんで、さては昨夜あたり夜盗でも働いたかと察したまでよ。まぁ、そう目くじらを立てるな。大和屋が盗られた千二百両のことぁ、決して寄席の高座にかけたりはしねぇよ」
「口外されては困る。大和屋の主人もあまりのことに寝ついた。客に知られてはまずいということで、今朝から番頭を筆頭にのれんを掲げ、商いはしていて表向きは平静だ。だが、夜荒らし沙汰だったのだ。うーむ、お前だから打ち明けるが、奉公人が三人斬り殺され、女中が一人さらわれた。おそらく顔を見たからだろう。盗人たちの人相が割れるのをおそれたのであろう。円朝、高座ではもちろん、誰にもしゃべるなよ」
「夜荒らしってことは、押し込み盗人か。三人が斬られたとあっちゃぁ、ご主人も寝ついちまうだろうな」
円朝は言うと、茶漬けをまた食べ始めた。圭之介は椀の箸を止めたままだった。
「斬り殺した奉公人の額に、我ら奉行所の者にあてつけたように“文蔵様参上”と書いた紙を……うーむ」
圭之介は止めたままの箸を悔しそうに握りしめた。
「名乗りの紙をどうしたって、圭之介」
円朝は姿勢を正し、椀を胸前にしつえて、器用に上品に、茶漬けを食べ続けている。
圭之介は眉をひそめて、うなるように円朝に言った。
「その紙をな、斬り殺した奉公人の額に五寸釘で打ち込んで去ったのだ。非人な行いとは思わないか、円朝」
「なるほど、斬り殺したうえに、額に五寸釘か」
「ああ、これまでにない手口だ。おそらくは江戸へは新参の盗人だろう。我らは密かに“五寸釘の文蔵”と名付けた」
「うーむ。黒船の騒ぎから御上のご威光が衰えちゃいねぇか、圭之介」
「しっ、それだけは言うな。円朝。俺はこう見えても御上のために働く同心だぞ」
円朝は、目を細めてにやりとした顔を黙って圭之介にみせた。
茶漬けを食べ続ける。円朝が黙ってしまったので、圭之介も箸を動かし始めた。
二人は向かい合い黙して椀の飯を食べ続けた。ぽそりと円朝が箸を動かしながら言った。
「それより、久米吉ってぇ大工の、尋ね人のお千恵さんが気になる。俺にはぁな」
奉行所の探索のことを仔細まで、うっかりしゃべらされたことに圭之介はむっとした顔で、円朝をにらんだ。
円朝は、どこ吹く春の風とばかりに茶漬けの箸をのんびりと動かした。
翌朝、卯の刻、明け六ツ半。円朝は神田竪大工町の路地を歩いていた。
このあたりは長屋でも、大店裏で路地の掃除もゆきとどいている。浅草のお富士さんこと、浅間神社で開かれる植木市あたりで求めたものか、柘榴や椿の鉢植えが整然と並べられている。どぶの溝を流れる悪臭とてない。
ぶらぶらと湯島から朝の道を歩いてきた円朝は、神田の町衆の差配の良さに感心したものだった。路地を歩く。表店の陰に隠れた長屋の木戸が、並ぶ。
長屋の庭には小さな赤い鳥居が見えるから、稲荷神をまつっているのだろう。
春の朝はまだ肌寒い。どこかから朝餉の味噌汁の香りがただよってくる。
とんとんとまな板を包丁が叩く音もする。春大根か青菜でも刻んでいるものか。
井戸から桶に水を汲む音がする。顔を洗う姿が見える。
このあたりの町屋の井戸は、神田上水の水道から澄んだ水がくみ出せる。
おかみさん連中が、井戸端でお互いに朝のあいさつを交わしては、それぞれが長屋の自分の部屋へと戻っていく。江戸の一日が始まっているのだ。
「お千恵っ、行って来るよっ」
明るい声がした。円朝は思わず振り返った。
九尺二間の小さな長屋から、男がにこにこと出て行く。肩には大工箱を担っている。
―あれが久米吉さんか……。
大工箱とは、鉋(かんな)や鑿(のみ)や罫引き(けひき)、玄翁(げんのう) 錐(きり)、鋸(のこぎり)、差金(さしがね)などの大工道具一式を入れた箱である。
大工は自分の道具を、それぞれの普請場に運んで行って、仕事をする。
男の担いだ大工箱には墨書きで「神田竪大工町 くめきち」の名が記してあった。
円朝とすれ違うように、久米吉は長屋の木戸を出て行く。表通りに早足に出ると、あっという間に往来へと姿を消した。