圭之介と母親のやりとりを円朝は笑って眺める。そして、
「まぁ、おっかさんがそう言っているんだ。圭之介、遠慮すると具合がおさまらねぇぜ」
手を出して圭之介の腰の大小の刀を預かるのもいつもの円朝であった。
座敷には、床の間に朱鞘の刀が掛けてある。武蔵国兼光。圭之介の刀より立派なこしらえである。出淵家に伝わる刀剣だ。だが、円朝はそれを腰に着けて歩くことはしない。
手ぬぐいと扇子が、
「噺家にとっちゃあ、おさむれぇの刀みてぇなもんよ」
いつも言って頬笑む円朝であった。
春とはいえ、まだ浅い。寒さの残る座敷には火鉢に鉄瓶が湯気を立てている。
半月膳の上に、漆塗りの椀が乗り、白米が盛られた。
有田焼の急須が座敷に置かれた。京の宇治から取り寄せたという緑茶をおすみが急須に入れる。鉄瓶の湯が注がれる。ほわりと宇治茶の香りが広がる。
あさりの煮付けの小皿、糸切り昆布の小皿、蕗のとうの甘煮付けの小皿。
圭之介が遠慮がちに、小皿の惣菜を白米の上に箸で運ぶと、おすみが黄瀬戸の茶碗に、宇治の緑茶を注いだ。
「さぁ、お茶がはいりました。茶漬けにするもよし、白飯のあとに、のどをうるおすもよしでござんすよ。お好きに召し上がってくださいましな」
言うと、奥へと引っ込んでいった。
「圭之介、変わったことぁねぇか」
「おつとめの子細は、お前とてうかつには話せん。だが、心掛かりなことならある」
「うん、何だ」
円朝はあさりの煮付けを白米の上に乗せると、宇治茶を注いで茶漬けにした。
「日本橋の一石橋だ」
「ああ、あの迷子さがしの一石橋か」
日本橋と神田を結ぶ一石橋は、江戸初期の造りだと伝えられる。
北に幕府金座御用の両替商を商い、小判を鋳造していた後藤庄三郎と、南に幕府御用呉服商として江戸城に衣服を納入する後藤縫殿助(ぬいのすけ)の屋敷があった。
江戸の始めの頃、川に架かっていた橋が流され失われたときに、北の両替商の後藤家と南の呉服商の後藤家が資金を出し合い、橋は再建された。一石橋とは、後藤の読みからきている。つまり“北の五斗と南の五斗で一石”と江戸っ子がもじった洒落から、橋は一石橋と呼ばれるようになったのである。その一石橋のかたわらに石柱が建っている。
「満よひ子の志るべ」の石柱である。
江戸の町は広い。そして火事が多い。逃げ延びるときに、我が子の手を離せば“一生会えなくなる”とまで言われた。幼子は迷子となって、江戸の町を流浪するはめになるのだ。
江戸庶民の知恵が一石橋の「満よひ子の志るべ」の石標柱である。町奉行所の御触れに、
「迷子は、その町内で預かり、衣食住の世話をすること」
とされていた。
石標の右側には迷子を保護した者がその子の親を探すための「しらする方」が設けられている。一方で、我が子を探す親もいる。左側には我が子を見失った親がその名や特徴などを書き記した紙を貼るための「たずぬる方」がある。石標は江戸の町民たちが資金を出し合って建てた。尋ね人がいる者は、日本橋の一石橋の石標へまずは出向く習わしである。
「毎月、十五日だ。それが十年だ」
「むん、何のことだ、圭之介」
円朝が茶漬けを上品に食べながら尋ねた。
「うむ、それが今月はないのだ」
圭之介があさりの煮付けを丁寧に一粒ずつ口に運びつつ答えた。
「ますます何のことだか」
「分からぬか、さすが早耳の円朝師匠でも“一石橋の久米吉とお千恵”は知らんのか」
圭之介は相変わらず、あさりの煮付けを一粒ずつ口に運んでいる。
「俺もはじめは知らなかった。日本橋界隈を預かる同心仲間から聞かされたのだ」
言いながら遠慮がちに椀の白米を噛む。
「神田竪大工町、普請見習い、久米吉の尋ね人、お千恵の特徴は丸顔に大きな目、鼻口小さきにて、あごの下左に小さき黒子ひとつありだそうだ」
円朝が茶漬けを食う手を止めた。
「うむ……それで」
圭之介は白米を口に運ぶが大きくは頬張らない。
いまはあさりの煮付けを離れ、箸は糸切り昆布へと伸びていた。
「その貼り紙が一石橋の石標の左側にあがったのはいまから十年前のことなのだそうだ」
糸切り昆布を丁寧にほぐし、白米のうえに広げる圭之介だった。
「十年前といえば俺も同心としては見習いだった。その貼り紙は十年前から、毎月十五日になると、まったく同じ尋ね人としてまた貼られる。もっとも普請見習いだった久米吉は、普請大工となり、最近では棟梁手助けにまでなっている。俺が初めてその貼り紙を見たのは、いまから三年前だ。なるほど、毎月十五日になると新しい尋ね人の貼り紙が一石橋に貼り出される」
「うむ、貼り紙なら雨に流されることも、風に飛ばされることもあるだろうからな」
「そうなのだ。仮に風雨に流されることなく貼り紙が残っていても、毎月十五日になると、久米吉がお千恵という女を探す貼り紙は、真新しいものに取り替えられていたのだ」
「ほぅ」