第一話 「三日女房」(8)

そんな露店の板のうえに、久米吉はふと目を留めた。
珊瑚の紅色が鮮やかな、かんざしを見つけたのだ。
「五分玉でございます。何でも琉球の海で獲れたとかで、おさしさわりのないように、お断りを申しておきますが、付け金のところに、ほんのわずかにきずがございます。何ぁに髪にお挿しにになれば、隠れてしまうきずでございます」
さっそく露天商の店主が久米吉に声をかけた。
「さるお大名の江戸屋敷にお勤めのお侍様の奥方が芝神谷町の若狭屋でお求めになったかんざしでございます。ところがほれ、黒船が来てからというもの、夷敵に備えて、お武家様たちは甲冑、槍、刀をご新調なさらねばならぬ始末となりました。ご金子が要りようになりまして、奥方様は内助の功というわけでございましょう。この立派な珊瑚のかんざしを質屋に入れてお武家様の甲冑をご新調なさる資金となさったとかいう裏話がございまして、それが流れ流れて、私のような商いをする者の手に渡って来たという、からくり話でございます。ですから、極上でありながら、お値打ちのお買い得となっております」
露天商は、いっきにまくしたてた。
秋の夕焼けの茜空の下にあっても、その珊瑚のかんざしはより赤く、鮮やかに光っていた。久米吉はじっとかんざしの赤色に見入った。
「いくらでぇ」
思わず値を尋ねてしまった。
「一両三分二朱でございます」
久米吉はぐっと息をのんだ。
それは久米吉が大工見習いになってから八年の間に貯めた金でもまだ足りない高値であった。久米吉は孤児である。弘化三(1863)年一月十五日。小石川馬場向小横町から出た火事は、二百九十町を炎に飲み込んだ。日本橋も全焼した。死者が多数いた。
幼い久米吉も焼け出され、はぐれた両親とは二度と会うことはなかった。
おおかた火事にまかれて焼け死んだのだろうという話になった。
久米吉は、お助け小屋と呼ばれる孤児預かり処で養育され、九歳で神田の大工、達五郎のもとに見習いに入ったのである。
普請場で丸一日働いて、もらえる給金のほとんどは長屋の家賃と飲食代に消える。
衣服とてこの三年は新しいものを帯一本、買ったことがない。
それでも工面して、金は貯めた。その全財産が腹掛けに巻いてある。
「いかがでございましょう。一両二分にお値引きさせてもらいますが」
まるで久米吉の懐を読んだかのように店主が言った。
一両二分。まさに久米吉の全財産である。棟梁から給金をもらえるようになった十三歳の歳から、八年の間にこつこつと貯めた全財産であった。
ぐぐっとのどが渇くのを感じた。
久米吉が思わず口にした言葉は自分でもびっくりするものだった。
「おぅ、もらおうじゃねぇか」
店主は丁重に頭を下げ、畳(たとう)紙に珊瑚のかんざしをくるんだ。
「毎度、ありがとうございます」
お定まりのお愛想を言って、畳紙に包んだ珊瑚のかんざしを久米吉に渡した。
白い畳紙を透いて、珊瑚の赤い色が覗けた。それほどに鮮やかな珊瑚の赤だった。
神田竪大工町の長屋に戻った。
「お帰り、お前ぃさん」
お千恵は満面の笑顔で久米吉を迎えた。
「おぅ、土産だ」
色あせて古ぼけた畳の上に、久米吉は畳紙をそっと置いた。
「何だい、お前ぃさん」
お千恵は畳紙をほどいて開いた。鮮やかな珊瑚のかんざしが現れた。
お千恵は、はっとして顔をあげた。大きな瞳がますます大きく見開かれた。
「お前ぃさん……。悪いことでもしたの」
大きな瞳で久米吉を見つめた。
「こ、こんな豪儀な珊瑚のかんざしなんて、見習い大工に買えるもんじゃぁないだろう」
お千恵の瞳がみるみる赤く染まり、ほろりと涙がこぼれた。
「悪いことをしたんなら、あたしに正直に言っておくれ。これ、返してくるからさ、詫びを入れて、お役人に捕まらないように頼むからさ、ねっ、お前さん。正直に言っておくれよ。どこのお店から……」
「違う、違うよ、お千恵。そりぁ、俺が十軒店で買ってきたんだい」
「いくらで」
「そいつぁ聞くねぃ。俺が達五郎棟梁んところへお世話になってから、貯めた銭があらぁ。その銭で、お前ぇに似合うと思ってよ。普請場の二階から転がり落ちたと覚悟を決めて、お前ぇに買って来たんだい。盗ってきたものとぁわけが違わぁ。なぁお千恵、そのかんざし、お前ぇに似合うぜぃ。さぁ、挿して俺に見せておくんな」
「買って来た、買って来たんだね。本当だね。だってお前さんが死にものぐるいで貯めた銭じゃあないか。こんな高そうなかんざしは、あたしみたいな器量の者にゃ不釣り合いだよぅ。こんな高そうなもの、こんなに立派なかんざし……」
てっきり久米吉が、どこかから盗んできたのではあるまいかと心配に涙をこぼしていたお千恵は、ますます大粒の涙を流しながら、両手にかんざしを大事そうに抱えていた。
「さぁ、挿してみねぇ。器量よしのお前ぇの女っぷりがますますあがるってぇところを、俺に見せておくんなよ」
久米吉は、お千恵が両の手のひらの上に抱えていた珊瑚のかんざしを手に取ると、すっとお千恵の髪に挿した。
「ほぅ……。お千恵、お前ぇ……きれいだぜぃ……」
「お前ぃさん、うれしいよぅ」