第一話 「三日女房」(9)

久米吉の胸にお千恵は飛び込んできた。
お千恵の涙が、久米吉の手の甲に落ちて濡れた。涙の粒は暖かかった。
夕餉の時刻になった。
泣いていたお千恵は、いまはにこにこと夕餉の支度に立ち働いていた。
はぜが刺身となって膳の上に並んだ。昨日買った夫婦茶碗と夫婦箸。山芋の短冊切りは、箸でつまみやすいように海苔を巻いてある。小海老の佃煮と昆布締めの小皿も並んでいる。
二人は向かい合わせに、膳を囲んだ。
「お前ぇに話があるんだ」
大きな茶碗を持ち、大きな箸で、はぜの刺身を醤油につけながら、久米吉が切り出した。
「何だい、お前ぃさん」
小さな茶碗を持ち、小さな箸で、小海老の佃煮をつまみながらお千恵が尋ねた。
「今日から、玄翁を握らせてもらえるようになったんだ」
「えっ……。良かった、良かったねぇ、お前ぃさん」
飯茶碗を持ったまま、お千恵が前に身を乗り出して、笑顔をみせた。
それからお千恵は、静かに碗と箸を置くと、一尺ばかり後ろに下がった。
畳に三つ指をついて頭を下げた。
「おめでとう、久米吉っつぁん。あたしは、このかんざしよりも、お前ぃさんが、棟梁に認めてもらえたことのほうが、ずっと、ずぅーっとうれしいよぅ」
祝いの言葉を述べながら頭を下げ続けるお千恵だった。
黒髪に赤い珊瑚のかんざしそのものが深くおじぎをしているように見えた。
「祝いだ、祝いだね」
三つ指をついていたお千恵は、すくと立ち上がると、土間のへっついの脇に降りて、酒の支度を始めた。二合半(こなから)徳利の旋を抜き、ぐい呑みを支度している。久米吉に背中を向けたまま、酒の支度に働きながら、お千恵が言った。赤い珊瑚のかんざしが髪を飾っている。
「あたしも、お前ぃさんに話があるんだ。聞いておくれかい」
「何でぇ、やぶからぼうに」
久米吉は、はぜの刺身で碗の飯を食らいながら、へっついの脇に立ち酒の支度を続けるお千恵に返事をした。
「隣町のお産婆さんにねぇ、診てもらってきたんだよ。そしたらさぁ“しかとは言えないけれど十中八九はおなかに稚児(ややこ)がお授かりでございますよ”って言ってくれたんだよ。来月また診てもらう約束をしてさぁ、そいで帰ってきたの」
久米吉は、飯を食う箸をとめた。お千恵の背中がぼぅと見えた。
お千恵の髪に、珊瑚のかんざしが鮮やかに赤かった。
そのうちに身体のなかから、何か分からない力がわき上がってくる。久米吉は身体が熱くなるのを感じた。言葉がまったく出てこない。やっとの思いで言葉を口にした。
「ほっ、本当か」
ひとたび言葉を口に出してしまえば、あとは次々と口をついて出た。
「本当か、お千恵。俺ぁ、俺ぁ、子どもが持てるのかい。お前ぇと俺の子が生まれてくるのかい。うん、働く。俺ぁ、たんと働くぜ。お千恵と、その生まれてくる子どもに、楽な暮らしをさせてやるんだぃ。うん、働く、俺ぁ、働くぜ、お千恵っ」
にこにこと黙ってお千恵は、しゃべり続ける久米吉の前に徳利とぐい呑み盃を置いた。
たった一つしかないぐい呑み盃を、夫婦で、やったりとったり。
盃に徳利から酒を注ぐのは、お千恵が一人で引き受けていた。
「働く、俺ぁは働くぜぃ、お千恵。うかうか玄翁を握らせてもらえたぐれぇで喜んでいる場合じゃねぇや。鉋や鑿や鋸や、一通りの仕事はこの身体に叩き込んで、いつかは立派な棟梁の身分になってみせらぁ。うん、お千恵っ。俺ぁは働くぜい」
酒の勢いもまわってきたか、饒舌になった久米吉だった。
「あぁ、お酒が切れちまったね」
お千恵が酌をしながら言った。
「今夜は祝いだもの、もう少し、お前ぇさんと呑みたいねぇ」
空になった二合半徳利を抱えてお千恵が土間に降りた。
「もう町内の酒屋さんは仕舞っちまっているだろうから、屋台のそば屋かおでん屋か、夜流しの商いをしている人の処へ行って、お酒を買ってくるからさ、お前ぇさん、待っていておくれよ」
長屋を急ぎ足に出て行くお千恵だった。そして、それきり……お千恵は帰って来なかった。お千恵が久米吉のもとへやって来た三日目の晩である。
久米吉はその夜は酔いつぶれ畳に眠り、朝になって、お千恵が帰ってきていないことに気がついた。しかし仕事を休むことはなかった。
「どこか、友だちん処へでも泊めてもらったんだろう。そうに違ぇねぇ」
そう思った。お千恵のためにも、生まれてくる子どものためにも早く一人前の大工になって、楽な暮らしをさせてやりたい。いつものように大工箱をかつぐと仕事に出かけた。
仕事から帰ってきた暮れ六ツに、神田の長屋にやはりお千恵の姿はなかった。
「かどわかしにでも遭ったのか。それともどこかで怪我でもしてやしねぇか」
じわじわと不安が広がり、これは大変なことになったと久米吉の心はざわめいた。
大家の瀧本正太郎のもとを訪ねた。
お千恵がやって来てから、いなくなったまでの三日の間の出来事を話した。
正太郎大家は長屋の連中を集めた。表店の商家の番頭にも話をして、人出をかき集めた。