第一話 「三日女房」(35)

刀剣の内側に入り込まれて、蝙蝠男の胴なぎは空を切り、ひじが折れると同時に刀を落としてしまった。
「くそっ、手前ぇたちは残って、この噺家を始末しろぃ」
文蔵は他の手下たち五人に命じると、
「落ち合う先は、分かっているな。噺家野郎を始末したら、追いつけよ」
残りの手下たちを率いて、大八車を曳かせ、街道を走り出した。
「逃がすかっ」
追いかけようとする円朝の前に、命じられた五人が刀身をぎらつかせ、立ちはだかった。
鼠色男が左から、濃紺男が右から同時に撃ちかかってきた。ダッと円朝は地を蹴った。打ち込んでくる鼠色男との間合いを自分から詰め、上段に構える鼠色男が刀身を振るう前に、頭部へ一撃をくらわせた。
「どぐへっ」
鼠色男が倒れ込む瞬間に体をくるりと横に流し、濃紺男の胴部へなぎ払いの一撃をくらわせた。円朝は二人を瞬時に倒したのだ。峰打ちだが、打ち込みは激しく、二人は地に倒れて動かなかった。残りの三人を、円朝はぎろりとにらみつけた。
「うはっ、ひっ引け、引けぇー」
怖じ気づいたか、三人は刀を円朝には向けていたが後ずさりして、やがて身をひるがえすと、夜闇のなかを散り散りに、てんでの方向へと走って逃げた。
「くっ、文蔵めっ」
追おうとした円朝だったが。文蔵一味の大八車は、闇の向こうへ逃走したあとだった。
ジャン、ジャン、ジャン、ジャン……。
火事を知らせる半鐘は擦り打ちに打ち鳴らされて火災が近いことを知らせる。
「おっかさん」
母親のおすみの身が案じられた。
円朝の足は、自分でもそうと気がつかぬうちに湯島に向かって駆け出していた。
火の手は湯島天神下から、南へ三組坂下まで広がっている。
円朝は湯島天神社の女坂に続く路地に駆け入った。火の手が左から伸びてくる。
立ちこめる炎と煙のなかに、自分の家を見つけた。まだ全焼してはいない。
「おっ母さんっ」
夜空から火の粉が降ってくる。そのなかを円朝は母親のおすみを救い出すために、煙が立ちこめる円朝宅へと駆け入ったのである。
「次郎吉やっ」
円朝の本名を呼ぶ声がした。
寝間着姿で、おすみが部屋のなかにしゃがみ込んでいた。
「ごほっ、ごほっ、ごほっ、けぶがしどいったらありゃしない。玄関がどっちだか見えやしなくてさ。部屋んなかを這いずり廻っていたところさ」
気丈なおすみである。円朝の声に応えて早口に愚痴を言ってのけた。
「おっ母さん、玄関はこっちだ。さぁ、手を引くから、ついてきなせぇ」
「お待ち、次郎吉。お前ぃは噺家さぁね。明日からの高座に今夜の高座と同じなりで上がったんじゃ、三遊亭円朝の名がすたるよ。羽織、着物、襦袢、帯、そして扇子と手ぬぐいを畳んでおいたからね。持ってお行き」
おすみは風呂敷包みに円朝の高座衣装の一切を包んでおいたらしい。円朝に差し出した。
「そして、忘れちゃぁいけないよ。あたしより大事にして持っておいき。あたしゃ、しとりでも立ち上がって、お前ぃのあとをついて行くからさぁ」
ぐいっと円朝に差し出したものがある。朱鞘の刀剣であった。武蔵国兼光。父親の代まで武士だった円朝の家の出淵家に伝わる宝刀である。
円朝は風呂敷包みを左手に、兼光の刀を右手に受けとった。
「さぁ、おっ母さん、早く」
「あいよ」
あたりは火災の煙で路地すら見えない。その路地に二人は踊り出た。
おすみは円朝の背中にしがみついて、あとからついてきた。途端に。
ガラガラガラッ……
と円朝の家の左側の壁が焼け落ちた。
「あぶねぇ、家のなかに残っていたら、いま頃は」
円朝がつぶやいたときだった。
「円朝師匠っ」
声をかけてきたのは、火消し鳶の若い衆だった。円朝と顔見知りで名を秀次という。
刺し子長半纏に刺し子頭巾に顔を隠し、目元だけが覗いている。
長引脚絆で足をおおっている。刺し子装束は全身がびしょ濡れである。
水をかぶって火災地の見回りをしているのだろう。
「さぁ、こちらへ。まだ火の手がゆるい逃げ道をあっしがご案内いたしやす。さぁ、おっ母さんも早く」
秀次は、ふだん円朝が通っている自宅への往復路ではなく、路地から抜けた広い道へと抜け道を案内して先に立って駆けてゆく。