第一話 「三日女房」(26)

まだ客を受け入れるという目印だ。
「守蔵さん、あの旅籠に駕篭をつけてくれ」
嘉納屋というのだった。
「願いが叶う、嘉納屋でございます。小さな旅籠でございますが、旅商いをなさるお客様にご贔屓になっておりまして、今日まで細々と稼業をつないで参りました」
女将の嘉納屋伝兵衛女房、お兼は円朝に世辞挨拶を言いながら、円朝とお千恵、そしてお千佳を六畳一間の客間に通した。仲居すら置かぬ小さな平旅籠だった。
膳部が出された。白米、切干大根の味噌汁、千住で獲れたのか、菜のおひたしはしゃきしゃきと新鮮である。卵焼き、焼き豆腐と蒟蒻の田楽、ぼらの塩焼き、海苔の佃煮である。
「済まねぇが、表に待たせている駕篭屋のお二人にも、何か飯を出してやっちゃあくれめぇか」
円朝は、守蔵と伸兵衛の飯代として、女将のお兼に三百文を握らせた。
一泊の旅籠賃に相当する代金である。
「これは、表の駕籠かきさんたちの飯代としちゃ、多すぎますが」
「構わねぇ。茶漬けよりは、ましな飯を食わせてやっておくんねぇ」
お兼は、金額に驚いた顔をしたが、すぐに愛想笑いに戻った。
「それじゃあ、旦那様、ご新造様、お嬢ちゃま、ごゆっくりお休みんなっておくんなさいまし」
円朝とお千恵を、夫婦ものと間違えたものか、訳有りの駆け落ち者と見たか、いずれにせよ、お兼は布団を部屋に敷き、三人を残して六畳間を出て行った。
布団には、お千佳を寝かしつけた。
「さぁて、お千恵さん。あの百姓家にいた次第を聞かせてもらえまいか」
円朝の問いかけに、しばらくはうつむいていたお千恵だった。
お千恵は、すやすやと寝息を立てるお千佳を眺めながら口を開いた。
「あたしは日本橋田所町で育ちました。お父っつぁんの名は伊平次といいます」
丸顔に大きな目、小さな鼻と口、細いあごの左下に小さな黒子。
お千恵の白い肌を行燈の明かりが照らしていた。
お千恵はが円朝にぽつり、ぽつりと身の上話を語り始めた。
「お父っつぁんは独り身で男手ひとつであたしを育ててくれたんです」
「おっ母さんは亡くなったのかぃ」
お千恵はかぶりを振るばかりだった。お千恵の髪には珊瑚の赤いかんざしは無かった。
「お父っつぁんは、独り身の大工でした。それでも棟梁として三人の若い衆を使って、ときには大店の普請を請け負うほどの腕前でした」
「ほぅ、お千恵さんのお父っつぁんは大工かい」
円朝が目を細めた。お千恵は円朝の目を見つめたまま語り続けた。
「あたしが赤ん坊の頃は、お父っつぁんが普請場に出かけて留守にする間は、向こう三軒、両隣、長屋のご近所の女の人達が入れ替わりで、あたしの世話をしてくれたそうです」
「そうか、大工は昼間は外へ仕事に出かけなきゃならねぇもんな」
「ええ、その他に日本橋小網町の米問屋、久保田屋から毎月、米代として二朱金四枚が届くのが習わしでした。幼い頃は何とも思わなかったけれど……」
「小網町の久保田屋さんは、たしか身代を潰しちまった米問屋さんじゃぁなかったかぃ」
円朝の問いかけにも気がつかないとでもいうように、お千恵は語り続けた。
「お父っつぁんは優しい人でした。七つの祝いに真新しい振り袖を着せてくれて。手習いにも通わせてもらいました。おかげで読み書きもできます。針の稽古にも、まかないの手伝いにも通いましたから、裁縫も料理も女ひと通りのことはできます。手習いの帰りに、仕事を終えたお父っちゃんを長屋の表通りに迎えに行くのが楽しみで、お父っちゃんは紙風船やら姉様人形やら、ときにはあめ玉を土産に買って来てくれて、あたしはお父っつぁんが大好きでした」
伊平次の話をするとき、お千恵は幼子のような笑顔をみせた。
「春になって桜が開く時分には、お父っつぁんは旅支度をして、中山道へ向かいました。どこへ行くのと尋ねると、お前ぇのおっ母さんの墓参りに行くんだと答えて」
「一緒に旅をしたことぁ、ねぇのかい」
お千恵はかぶりを振るばかりだった。
「あたしは一度も、おっ母さんの墓参りには連れて行ってもらえませんでした」
悲しそうな顔は、すぐに懐かしそうな顔に変わった。
「九つのときに初天神へ連れて行ってもらいましたっけ」
初天神とは一月二十五日に天神様である菅原道真をまつる、各地の天満宮や天神社へ参拝する習わしである。平安時代の官僚にして学者であった菅原道真が生まれたのが六月二十五日、没したのが二月二十五日。二十五日は天神様としてまつられた菅原道真の縁日となった。だから年の初めの一月二十五日の天神参りを初天神と呼ぶのである。
「ほぅ、どこの天神様へ出かけたんだぇ」
「長屋のあった日本橋田所町から湯島の天神様へ。振り袖の晴れ着を着せてもらって、お父っつぁんに手を引かれて……」
「ほぅ、俺んちの近所へと出かけてきたわけだ」
円朝はお千恵に聞こえないように小声でつぶやいた。
「うん、うぅーん」
円朝がつぶやいている間に、お千佳が寝返りを打った。
お千恵は、布団をはねのけたお千佳にまた布団を掛け直してやりながら、話を続けた。
「初天神への道すがら、ふと、お父っつぁんが足を停めたのが神田の普請場でした」