第一話 「三日女房」(10)

「迷子やぁーい、お千恵さんやぁーい」
夕闇が夜闇に変わるまで、神田竪大工町の人々は声高に、お千恵を捜した。
次の日も、その次の日も、人々はお千恵を捜した。
神田から南は日本橋、京橋、八丁堀から有楽原の守山町、惣十郞町、内山町のあたりまで。北は上野、浅草、入谷の鬼子母神、坂本村のはずれまで。
湯島、本郷、小石川……。赤坂、麻布、渋谷村……。八百八町を捜しに、捜した。
久米吉も今日は神田、日本橋、次の日は湯島、本郷、その次の日は赤坂、麻布までと足を伸ばして、人々と一緒にお千恵を捜した。四日目に正太郎大家は言った。
「これは三四の番屋にでも届けるしかあるまい」
三四の番屋とは、日本橋本材木町三丁目と四丁目でこしらえた番屋である。
江戸市中には町々に自身番と呼ばれる番屋がある。だが役人が常駐することはなく、町営の監視処に過ぎない。
三四の番屋は江戸市中に七カ所しかなかった大番屋のうちの一つであった。役人が常駐する番屋である。役人に取りあげてもらえれば、もしや……と正太郎は考えたのである。
だがしょせんは“町人の行方知れず”それも事情の子細を聞けば“家出かも知れぬ”という始末では、役人に取りあげてもらうことなど叶わなかった。
七日ばかりは、あっという間に過ぎた。懸命に捜してくれていた人々も、一人減り、二人抜け、そのうちに誰もいなくなった。長屋の連中のなかには、
「そのお千恵って女房は、本当に居たのかぃ」
と久米吉に尋ねる始末だった。
「おおかた、女ぎつねが化けて久米吉っつぁんをからかったのさ」
なぐさめにもならない、なぐさめを言って長屋の自分の部屋へと帰っていくおかみさんもいた。久米吉はあきらめきれなかった。独りで、仕事前の朝早くや、仕事後の宵から夜にかけてとひまを作っては、江戸のあちらこちらを歩いて、お千恵の姿を捜し続けた。
十月が過ぎ、十一月が過ぎ、師走月を迎えた。
さすがの久米吉も、江戸市中の町々をお千恵を捜して歩くことをやめてしまった。
久米吉は普請場で、玄翁を握っても、ふとぼんやりしてしまう自分に気がついたりした。
達五郎棟梁から怒鳴られる不始末もしでかした。鋸で切った材木の寸法を間違えたのだ。
神田竪大工町の長屋に戻っても、ぼんやりと座り込み、夕餉も食べずに寝入ってしまう晩もあった。師走、十二月の江戸の町には寒風が吹きさらす。丑三つの真夜中に戸板を、どんどんと叩く音が聞こえた。久米吉はそっと布団を抜け出すと、かいまき姿で、
「お千恵かぃ……」
細い声で呼びかけて、戸板を開いてみた。風が戸板を叩いていただけだった。
「うぅぅ、寒い」
突き刺さるような真冬の風である。
「寝ちまおぅ」
独り言をつぶやいた久米吉だった。ふと夜闇の明るさに空を見上げた。
十二月十五日。満月が真冬の空に輝いていた。
「お千恵……」
また独り言である。お千恵がやって来た九月のあの晩の十五夜の満月を二人で見上げたのを思い出したのだ。部屋に戻り、布団を頭からかぶった。涙がこぼれて仕方がなかった。
泣きながら、泣き疲れて、そうして眠りに就いた。そんな晩ばかりが続いた。
新年を迎え、春が過ぎ、夏になった。お千恵がいなくなって十ヶ月が過ぎていた。
七月十日の浅草寺の四万六千日がやって来た。
暑い盛りである。じっとしていても汗が噴き出てくる。その日は、たまたま普請が休みで、久米吉は浅草の四万六千日詣でに出かけた。
享保年間(1716~36)頃より「四万六千日」の信仰は広まった。
この日に浅草寺にお参りすると四万六千(約126年)日の観音様からのご利益があるといわれる。“一升の米粒の数が四万六千粒なので、一升と一生をかけた”など諸説がある。
境内は、ほおずきを売る掛け小屋が立ち並ぶ。ほおずきを水で丸呑みすると、大人は癪(しゃく)が治り、子どもは疳の虫を除くと薬草として評判なのだ。
浅草寺の観音様のご利益と、薬草のほおずきの効能を求めておおぜいの人が参詣する。
人混みをかき分けながら歩いていた久米吉は、赤い珊瑚のかんざしを挿した女の後ろ姿を見かけた。
「お千恵っ、お千恵じゃねぇのかぃ」
大声で呼びかけた。人混みの奥に女が振り返った。
小さな丸顔、大きな瞳、紅をさした小さな口と鼻、あごの左下の黒子まで久米吉には遠目にはっきりと見えた。
だが、お千恵らしき女は、後ろを振り向いたものの、久米吉と目を合わせることもなく、きょろきょろとしたかと思うと、また前を向いてしまった。
後ろ姿の黒髪には、赤い珊瑚のかんざしが目立つ。
「間違ぇねぇ、お千恵だっ。おっ、お千恵っ」
久米吉はますます大声に呼びかけたが、女は振り返ることもなく、人混みに消えてしまった。浅草寺の境内の人混みが久米吉の身体も押し流した。
久米吉は、人混みをかき分けかき分け、お千恵らしき女が立っていた場所まで進んだ。
人混みの渦が浅草寺の境内を埋めつくしているだけだった。
本堂へ詣でることもなく、ほおずきを買うでもなく、久米吉は神田竪大工町の長屋に戻ってきた。くたくたに疲れていた。
夏の暑さもあり、疲れがどっと出て、蒸し暑い長屋の畳にごろりと横になった。