(2)

2「当たり前の救急搬送は頼めないな。店のことが表沙汰になる。小島先生のところへ運べ。さぁ、早く」
そんな声を聞きながら、正朝は意識を失っていった。
「あぁ……、死ぬんだ」
と思った。それも怖くはなかった。
冷たい底に向かって沈んで行く感覚のなかで、正朝は意識を遠のかせていった。
気がつくと堅いベッドの上だった。意識が戻って初めて腹部に激痛を感じた。
消毒薬の臭いがする。カーテンで仕切られて部屋の様子は見えない。古くさい壁が見えるだけだ。起き上がろうとして、正朝は痛みに声を挙げた。
「うっ」
サッとカーテンが開いて、初老の男が正朝のベットに現れた。白衣を着ている。医者らしい。白髪で長身。がっしりとした体格だ。老眼鏡だろうか、メガネを掛けている。
「気がついたか、若造」
第一声だった。太く低い声をしている。
「お前を治療した小島定信という医者だ。外科が専門だ」
暗い照明のなかでよく見れば、白衣は汚れてヨレヨレだ。
「いま鎮痛剤を打ってやる。意識がない間の鎮痛剤投与は危険でな。しばらくは痛むだろうが、男だったら我慢しろ」
点滴のチューブが右腕につながっていた。
「まったく、お前らのような闇の仕事をするもんは、命を粗末に扱う。気に入らん」
点滴の袋に小島医師は注射器で鎮痛剤を打ち込んだ。
「栄養点滴に、鎮痛剤を混ぜた。30分もすれば痛みは治まってくるだろう」
小島医師は独りで正朝にしゃべり続けた。
「シャトーは、荒津組の経営だったかな。お前も組員なんだろう?」
独り言のようにしゃべり続ける小島医師に、正朝は初めて口を開いた。
「俺はただのディーラーです。カードをさばいたり、ルーレットを廻したりするだけの雇われもんです。カジノ店の上層部に、どこの組が関わっているかなんて興味ありません」
「ほおぅ、流れもんのギャンブラーってわけか。どっちにしろ闇社会で食っていることに変わりはないだろう。若造、お前、いくつだ?」
「26です」
「ふぅむ……。俺にもお前くらいの歳の息子がいるがな。医者になったはずが辞職したらしい。俺とは親子断絶だ」
「いつ帰れますか」
正朝は、短くそれだけを尋ねた。
「当分は無理だ。お前はしばらく入院だ。普通食もまだ食べられん。栄養点滴が頼りだ」
小島医師は正朝のベッドに背中を向けながら、そう告げた。
「心配するな。治療費、入院費はシャトーの深尾からもらってある。お前は黙って、俺の言う通りにおとなしく寝ていればいいんだ」
小島医師はカジノ店シャトーの深尾店長の名を呼び捨てにした。
「あいつとは古い付き合いでな。30年前、深尾がまだ東京で新聞記者をしていたころからの知り合いだ。俺はその頃、東京の大学病院で外科医をやっていた」
「深尾店長は新聞記者だったんすか」
「あぁ、社会部バリバリの若手で、巨悪の根源を叩くなんて口にする熱血漢でな。よく新宿の歌舞伎町あたりで一緒に気炎を上げて飲んだ仲間だったさ」
痩せて、顔にも小皺が目立ち、頭頂部が禿げ、プライベートではハンチング帽をかぶっている深尾店長の顔が浮かんだ。
カジノ店の店長といっても、実際の経営者ではない。経営をしているのは世にいう暴力団がほとんどで、店長も雇われの身だ。警察のガサ入れ、つまりは検挙が入ったときの逮捕要員だ。検挙の責任を一身に負う。そのために高額な報酬を上層部から受けとっている。
正朝の入院治療費は、そんな深尾店長のポケットマネーから支払われたんだろうか。
いやカジノ店の経費からだろう。そんなことをいちいち気にするなんて馬鹿げている。
「どれくらい入院しなきゃいけないんすか」
「そうだな。傷がふさがるまで、その後の経過も診て2週間から20日といったところだな。退院してからも、自宅療養は必要だろう。お前、家族はいるのか」
「いや、いません」
「どこに住んでいるんだ」
「薬院で独り暮らしです」
西鉄福岡、通称、天神の街から西鉄線で1駅の場所に薬院はある。
「ふん。静かな町に住んでいるな」
と小島医師は言った。
福岡と博多とはよそ者からみれば一緒くたに思われるが別の歴史をたどってきた。
福岡は黒田藩の武士町、博多は城下の商人町だった。
「退院してからも治療は続くぞ。通院してもらう」
その2つの町を別つように流れる那珂川と博多川の中間に浮かぶのが中洲だ。